12話:彼の言葉を、もし信じられたなら
馬車が停まっても涙が止まらない私を、ライオス様は何も言わず、ただ優しく抱きしめ続けてくれた。
「クラリッサ、夜の馬車は冷える。……ひとまず、家の中に入ろう?」
「はい……。申し訳ありません、私は後から参りますので……」
泣き腫らした目元は熱を持って赤くなっているのが、鏡を見ずとも分かる。きっとお化粧も酷く崩れてしまっているはずだ。こんなみっともない顔で、使用人たちの前に出るわけにはいかない。
「君を独りで置いていくわけないだろう?ほら、これをかければ誰も君の顔を見られないから」
そう言ってライオス様は、自身の上着を脱ぐと、私の頭上からふわりと被せてくれた。視界が遮られ、ライオス様の纏う落ち着いた香りに包まれる。
「ちょっと失礼するよ」
「……?きゃっ!?」
浮遊感と共に、視界がぐらりと揺れた。
驚いて声を上げた時には、ライオス様は軽々と私を抱き上げ、その逞しい腕で横抱きにしていた。
「じ、自分で歩けます……っ!降ろしてくださいませ!」
「大丈夫。事前に人払いはしてあるから、誰の目にも触れないよ。それに……僕がこうしたいんだ」
被せられた上着越しに、額のあたりにちゅっと唇を落とされた気配がした。
心臓がうるさいほどに跳ねる。私を腕の中に閉じ込めたまま、屋敷の中まで運び込んだライオス様は、私の部屋のソファーにそのまま腰を下ろした。
「あ、あの……っ!もう平気ですから……!」
いわゆる、お姫様抱っこの体勢のまま座っているので、私は今、ライオス様の膝の上に収まっている状態だ。
上着越しのキスと、この体勢への恥ずかしさで、止まらなかった涙はすっかり引っ込んでいた。
「本当に?」
「こ、この通りですわ」
このままではいつまでも解放されないと察した私は、上着の端を少し持ち上げて、ライオス様に顔を見せた。
「うーん、まだ目元が赤いような気がするけど……」
「気のせいです!あの、そろそろ降ろしてくださいませ……」
「そう?でも別に何もなくたって、このままでもいいんじゃないかい?」
「それは……っ、恥ずかしいです……」
「そうかい?ふふ、かわいいクラリッサ。だんだん慣れていこうね」
歌うような口調で上機嫌に微笑んだライオス様は、名残惜しそうに腕の力を緩め、やっと私をソファーへと降ろしてくれた。
その後、彼が自ら淹れてくれた温かいハーブティーをいただき、私の呼吸が完全に落ち着いたことを確認すると、ライオス様はそっと立ち上がった。
「ゆっくり休んでね。このベルを鳴らしてくれたらすぐに来るから。隣は僕の部屋なんだ」
そう言って、今度は上着越しではなく、私の額へ直接口付けを落として退室していった。
クルメリオン家での冷たい記憶が完全に消え去ったわけではない。けれど、一時的にライオス様の甘い温もりで上書きされた私は、その夜、数年ぶりに一度も悪夢を見ることなく深い眠りに就くことができた。
*
翌朝、身支度を整えて朝食に向かおうとした私の部屋のドアが、控えめにノックされた。
返事をすると、入ってきたのはライオス様だった。
「おはよう、クラリッサ。気分はどうだい?」
「おはようございます、ライオス様。その……おかげさまで、よく眠れました」
挨拶を交わしたものの、昨夜の醜態を思い出すとどうしても気まずくて、視線が泳いでしまう。歳の離れた、しかもかつての教え子に泣きつき、子供のようあやされたなど、思い返すだけで顔から火が出そうだ。
「今日は二人きりだし、朝食はここで周りを気にせず、ゆっくり食べないかい?」
ライオス様がパチンと指を鳴らすと、彼の後ろから給仕係がカートに乗せた朝食を運び込んできた。
お言葉に甘えて部屋で食事を取ることにした私は、ライオス様と穏やかに言葉を交わしながら、ゆっくり味わって朝食を楽しんだ。
「クラリッサ。実は来週から、大規模な魔物討伐隊が編成されることになってね。一週間ほど、家を空けることになるんだ」
「そうなのですね……。どうか、ご無事をお祈りしておりますわ」
この国には瘴気が濃い区域が数箇所存在し、そこから定期的に魔物が湧き出てくる。生まれたばかりの魔物はレベルが低いものの、放置すれば瘴気を吸って手がつけられないほど成長してしまうため、貴族には定期的な討伐隊への参加が義務付けられている。
「討伐隊の心配は全くいらないよ、クラリッサ。討伐隊には、あの『銀の聖女』様が同行されるからね。彼女が参加してからは一人たりとも犠牲者を出していないのは有名だろう? どんな怪我でも瞬時に完治させてしまうし、『英雄卿』だっている。僕が魔物に近づくことすら無いかもしれない」
「ですが、近年は魔物が凶暴化しているとも聞きますし……」
「大丈夫だよ。彼女の戦い方は何度か間近で見ているけれど、まさに『戦姫』の名に恥じない凄まじいものだ。ケイラス兄上が単独で討伐したと豪語していたワイバーンだって、大方、彼女が限界まで弱体化させたものにトドメを刺しただけだろうね」
我が国が誇る二人の聖女様。金の髪と銀の髪がトレードマークの彼女たちは、それぞれ『妖精姫』と『戦姫』の異名を持つ。
妖精姫ことリリアージュ様は、先日アレン殿下とご結婚されて王太子妃となられた。そして、もう一人の戦姫こと聖女ヴィリアリナ様は、王国内でも屈指の実力を誇り、魔王封印を成し遂げた。どちらも、ライオス様のご学友なのだという。
「討伐隊の任務よりも、僕は一週間も君に会えないことの方が何倍も心配だよ、クラリッサ。君のいない一週間なんて、僕が寂しさで干からびてしまいそうだ」
「ふふ、まあ。お上手ですこと」
「……君にしかこんなことは言わないんだけどな……」
拗ねたように少しだけ唇を尖らせるライオス様に、私はクスリと微笑みながらお茶を濁した。
(ライオス様は本当に、女性が喜ぶ甘い言葉選びが上手ね。まるで、本当に心から大切に想われているような錯覚に陥ってしまいそうだわ)
何も疑わず、ただ彼の言葉を信じてしまえれば、どんなに幸せだろう。
けれど、私はもう、彼のような輝かしい若者に本気で想ってもらえるような、価値のある女性ではないことを嫌というほど自覚している。
婚姻には失敗し、女性としての華の盛りもとうに過ぎてしまった。対して、成人されたばかりのライオス様は、これからますます魅力を増していくであろう貴公子だ。
いつか、必ず、彼にはもっと若くて美しく、何一つ欠けのない相応しい女性が現れる。
(こんなに良くしていただいたのだもの。その時が来たら、きちんと『先生』としてお祝いをして差し上げなくちゃ……)
そしてその先は、この夢のような日々の記憶を一生の宝物にして、静かに生きていこう。
私は胸の奥をキリリと刺す痛みをそっと隠し、今この瞬間に与えられている奇跡のような時間を、愛おしむように噛み締めるのだった。




