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11話:凍てついた心を溶かすぬくもり

 底冷えするような悪意と嘲笑に晒された、息詰まる晩餐会が終わった。

 イブリアス様とリリスティア様はそのまま本邸に泊まることになり、私とライオス様は、王都の別邸へと帰ることとなった。

 

 夜の帳が下りた王都を、馬車が静かに走り出す。

 車内を照らす魔導ランプの仄暗い光の中、私はシートの端で、膝の上に乗せた自分の手をじっと見つめていた。

 

 公爵邸を出て随分と時間が経つというのに、全身の震えがどうしても止まらない。

 指先は氷のように冷え切っているのに、頭の中だけが熱に浮かされたようで、最悪な思考ばかりがぐるぐると渦巻いていた。

 

(ベリリアス様が次期公爵夫人として嫁がれたら……私のような役立たず、すぐにこの家から追い出されてしまうわ)

 

 やっと見つけた、リリスティア様の家庭教師という大切な居場所。

 けれど、クルメリオン侯爵家での私の扱いを知っている彼女なら、「こんな石女の欠陥品など、公爵令嬢の教育係に相応しくない」と判断して即座に私を解雇するだろう。

 イブリアス様の研究の助手を務めようにも、公爵家にこれ以上私が関わることすら許されるはずがない。

 

(それに、こんなに早く婚約破棄だなんて噂になったら、今度こそ実家にも合わせる顔がない……。帰れる場所さえ私にはないんだわ)

 

 暗い離宮に閉じ込められていた、あの五年間。

 また何もできない、誰からも必要とされない「欠陥品」に逆戻りしてしまう。

 底なしの恐怖が冷たい触手のように全身を支配し、じわじわと息が苦しくなっていく。視界がぐらりと歪み、世界の中心から突き落とされるような錯覚に陥った、その時――。

 

「……ッサ、クラリッサ!」

 

 はっ、と意識が現実へと引き戻される。

 気がつけば、私の両肩には暖かく、大きな手が置かれていた。少し強い力で肩を揺すられて、初めて自分が名前を呼ばれていたことに気づく。

 

 顔を上げると、いつもの余裕に満ちた笑みではなく、痛々しいほどに眉を寄せたライオス様が私を覗き込んでいた。

 

「……はっ、も、申し訳ありません! 呼びかけに気づかず、とんでもない失礼を……っ」

 

 血の気が引き、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 ライオス様を無視するなんて、婚約者としてあってはならない非礼だ。

 クルメリオン侯爵家に嫁いですぐの頃、帳簿の計算に集中するあまり、元夫の呼びかけに気づかなかったことがあった。あの時、元夫からは「夫をないがしろにする、愛嬌のない奴め」と冷酷な苦言を呈され、何日も部屋に閉じ込められた。

 

(……ベリリアス様が来る前に、ライオス様にすら、愛想を尽かされてしまうかもしれないわ……)

 

 一度狂い出した思考の歯車は、どうしても悪い方へ、悪い方へと転がり落ちていく。

 

 震えて上手く言うことを聞かない体に鞭を打ち、せめて淑女として最低限の、微笑みを浮かべようとした――その瞬間。

 視界が、一気にライオス様の胸元で覆い尽くされた。


「……っ!?」

 

 強い力で引き寄せられ、私は彼の腕の中にすっぽりと包み込まれる。ただ、背中に回された腕は、壊れ物を扱うように優しかった。

 

「ごめん……。ごめんね、クラリッサ。こんな思いをさせてしまって……」

 

 耳元で、ライオス様の声が掠れたように震えている。

 衣服越しに伝わってくる彼の心臓の鼓動と、温かい体温。そのぬくもりが少しずつ染み込んで、凍りついていた私の指先に、じんわりと感覚が戻ってくる。

 

「君をあの暗い離宮に閉じ込めた五年間は……本当は、僕が原因かもしれないんだ……」

「……え? ライオス……様……?」

 

 彼の言った言葉の意味が、分からなかった。

 ライオス様が原因? そんなはずはない。私がクルメリオン侯爵家に嫁いだのも、そこで虐げられていたのも、ライオス様とは何の関係もないはずなのに。

 

「違います……っ。私が離宮に移されたのは、私が領地経営の仕事も……その、妻としての役目も何も果たせない、役立たずだったからで……。ライオス様は、関係ありません……」

 

 『役立たず』。

 自嘲を込めて改めて口にしたその言葉は、鉛のように重く私の胸にのしかかる。

 しかし、ライオス様は私の言葉を遮るように、抱きしめる腕にさらに力を込めた。

 

「クラリッサ、君は役立たずなんかじゃない。絶対に、違う」

 

 きっぱりとした、力強い声音だった。

 

「僕にとってはね、君がこうして生きて、隣にいてくれる……ただそれだけで、生きる意味になるんだ。それほどに、君は大切な人なんだよ」

「ライオス様……」

「五年……。本当に、長かったよね。存在を否定されて、冷たい場所に閉じ込められて……どれほど苦しかったか、どれほど寂しかったか……」

「いえ、私は……わ、たしは……」

 

 「大丈夫です」。そう言おうとしたけれども、私の心の奥底に眠る痛みを正確にすくい上げるような彼の言葉に、喉が酷く震えて、それ以上の言葉がどうしても紡げない。

 

「こんなに震えて……。安心して、クラリッサ。君の能力も、君の価値も、僕がすべて保証する。だから、もう怯えなくていいんだ」

 

 ライオス様の手が、私の背中を優しく、あやすようにゆっくりと撫でる。

 

「焦らなくていい。ゆっくり、本当にゆっくりでいいんだ……。僕に、君が失ってしまった自信を取り戻す手伝いをさせて欲しい……」

 

 切実に、祈るように呟く彼の声が、私の胸の澱みを溶かしていく。

 この五年間、誰にも見せないと心に決めて、奥歯を噛み締めて耐え続けていた涙の堤防が、音を立てて決壊した。

 

「……っ……うっ……ふ、……」

 

 子供のように、ボロボロと大粒の涙が溢れ出して止まらない。

 ライオス様はそんな私を拒むことなく、さらに自分の肩へと深く引き寄せ、大きな手で優しく私の頭を何度も何度も撫でてくれた。

 彼の仕立ての良い夜会服の肩口に、一粒、また一粒と、私の情けない涙が吸い込まれていく。

 

「……い、いけません……っ。ライオス様の上質な、お洋服を汚してしまいます……」

 

 淑女としての理性が辛うじて働き、慌てて身を引こうとした私を、彼は離さず更に抱きしめ直した。

 そして、なぜか酷く苦しそうな声で呟く。

 

「そんな些細なこと、気にする必要なんてどこにもない。……これまで何もできなかった無力な僕に、せめて、今の貴女の涙を受け止める権利をくれないか……」

 

 なぜ、ライオス様が、私のような傷物に対してここまで深く寄り添ってくれるのか、私には分からない。

 

 けれども――今だけは。

 冷え切ったこの胸を温めてくれる彼の優しさに、ただ縋ってしまうことを、許して欲しかった。

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