血の通った男。――むせ返る煙と、不器用な騎士が『反逆』の覚悟を決める夜
血の通った男。――むせ返る煙と、不器用な騎士が『反逆』の覚悟を決める夜
深夜の執務室。
蝋燭の火も消え、青白い月明かりだけが差し込む冷たい空間で、レオンハルトは一人、巨大な地図を睨みつけ続けていた。
「……ッ」
ギリッ、と。彼の手の中で、王都からの命令書が握り潰される。
『感染者が一柱でも出た村は、領民ごと火を放って浄化せよ』
それが、国を守るための『絶対の正論』であることは、為政者である彼自身が一番よく理解していた。
これまで彼は『氷の死神』として、辺境を守るために幾度となく非情な決断を下し、多くの血をその手で流してきた。全体を救うために一部を切り捨てる。それは上に立つ者の、逃れられない業だ。
今、自分が冷酷な指揮官として「村を焼け」と一言命じれば、この恐ろしいパンデミックは確実に防げるだろう。王都からの評価も揺るがない。
……だが。
(俺に、それができるというのか)
レオンハルトの脳裏に浮かぶのは、薄暗い工房の中で、睡眠を削り、目の下に濃い隈を作りながら、狂気にも似た執念で大鍋に向かう銀髪の少女の姿だった。
クロエは言っていた。
「私がこの街のみんなを守る。絶対に誰も死なせない」と。
彼女は自分の命をすり減らしてまで、絶望的な奇病から見ず知らずの領民の命を救おうと戦っている。
その愛する女の背中を知りながら、自分が彼女の守ろうとしている命を、為政者の『正論』を盾にして焼き殺すというのか。
「……俺は」
重圧と葛藤に、レオンハルトが顔を覆った、その時だった。
「……随分と、湿気たツラしてんなぁ。お坊ちゃん」
執務室の窓枠に、いつの間にか一人の男が腰掛けていた。
黒いブラックスーツをラフに着崩した巨躯。夜風に乗って、土の匂いと、微かに汗の匂いが漂ってくる。
「……龍魔呂。なぜ、ここにいる」
「クロエの嬢ちゃんから頼まれてな。徹夜で『星光華』ってのを育ててんだ。……で、畑の土が馴染むまでの間、少し様子を見に来てやったのさ」
龍魔呂は、音もなく執務室の床に降り立つと、レオンハルトの机の前まで歩み寄った。
机の上に広げられた地図と、丸められた王都からの命令書を一瞥し、フンと鼻を鳴らす。
「どうせ、上の連中から『臭いものには蓋をしろ』って命令でも来たんだろ。で、真面目なお坊ちゃんは、板挟みになって胃ぃ痛めてたってわけか」
「……」
レオンハルトは否定しなかった。
自分でも嫌になるほど、今の自分は迷い、立ち止まっている。
「吸うか?」
ふいに。龍魔呂が、懐から赤い箱を取り出し、自分とレオンハルトの間に差し出した。
紙に巻かれた、強い匂いを放つ嗜好品。
「何?」
「いいから加えろ」
有無を言わさぬ、しかしどこか面倒見のいい兄貴分のような口調。
レオンハルトは戸惑いながらも、なぜか逆らう気になれず、その一本を受け取り、不器用に口元へと運んだ。
龍魔呂が、真鍮製のオイルライターを取り出す。
――シュボッ。
暗い執務室に、小さな炎が灯る。
龍魔呂は自分のタバコに火をつけると、そのままライターをレオンハルトの口元へと近づけた。
「吸い込め」
言われるがまま、レオンハルトは深く息を吸い込んだ。
「ゲホッ! ゴホッ、ゲホッ……!!」
途端に、強烈な煙が喉と肺を焼き、レオンハルトは盛大にむせ返った。
目から涙が滲み、完璧な騎士としての威厳など跡形もなく吹き飛ぶ。
「な、なんだこれは……!? 貴様、こんな泥臭くて不味いものを、いつも好んで吸っていたのか!?」
「あぁ。苦ぇし、身体に悪りぃ。……だが、目が覚めるだろ」
「…………」
喉のヒリつきを堪えながら、レオンハルトはもう一度、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
今度は、むせなかった。
肺の奥まで届いたその苦味が、不思議と、冷え切っていた彼の心を熱く燃やし、張り詰めていた為政者としての仮面を内側から溶かしていくのが分かった。
「……あぁ」
レオンハルトは、煙を静かに吐き出し、微かに目を細めた。
「悪くない」
その一言に。
彼の中にあった迷いは、すべて消え去っていた。
「上の連中が吐く『正論』ってのは、いつだって綺麗で、薄っぺらい。手を汚さねぇ奴らの理屈だ」
龍魔呂が、机に寄りかかりながら紫煙をくゆらせて言った。
「だがな。泥被って土耕してる俺たちからすりゃあ、そんなもん知ったことじゃねぇんだよ。俺のルール(仁義)は一つだ。……カタギを見捨てるような、ダサい真似だけは絶対にしねぇ」
龍魔呂は、ヤクザのような鋭い目で、真っ直ぐにレオンハルトを見た。
「お前はどうだ、お坊ちゃん。俺たちが守るべき『カタギ』を、理屈で切り捨てるか?」
レオンハルトは、ふっと笑った。
氷の死神と呼ばれた男の顔ではない。傷つき、迷い、それでも愛する女の生き様に応えようとする、一人の血の通った『男』の顔だった。
「……俺は。愛する女が命を削って救おうとしている命を、俺自身の都合で奪うような、愚か者にはなりたくない」
レオンハルトは、手元のタバコを灰皿でもみ消すと、壁に立てかけてあった漆黒の大剣を手に取った。
「王都の討伐部隊は、朝になれば領地へ侵入してくるだろう。……俺が、一人で止める」
「反逆罪になるぜ」
「構わん。クロエが特効薬を完成させるまでの時間を稼げるのなら、俺がすべての泥を被る。……国を敵に回してでも、俺は俺の領民と、彼女の心を守り抜く」
その男の覚悟を聞き届け。
龍魔呂は「へっ」と満足そうに笑い、窓枠に足をかけた。
「上等だ。せいぜい意地張りな。……俺も、約束の時間までに最高にイカれた『薬草』を育て上げてやる」
そう言い残し、異世界のヤンキー農家は夜の闇へと溶けていった。
一人残された執務室で、レオンハルトは大きく息を吸い込み、決意の瞳で夜明けの空を見据えた。
* * *
数時間後。夜明けの錬金工房。
「レオンハルト様が……討伐部隊を止めるために、一人で国境へ向かった……!?」
騎士からの急報を受け、私は手にしていたフラスコを取り落としそうになった。
王都からの『村を焼け』という非情な命令。
それを拒否し、さらには王都の正規軍に刃を向けるということは、明確な『反逆罪』だ。レオンハルト様は、辺境伯という立場も、英雄としての名誉もすべて捨てて、私と領民を守るために、自ら泥を被る道を選んだのだ。
「……っ」
ギュッと、心臓が握り潰されるように痛んだ。
そして、それ以上に……腹の底から、今まで感じたことのないほど熱く、ドス黒い感情が沸き上がってくるのを感じた。
(レオンハルト様を、絶対に反逆者になんてさせない。領民を殺した罪も背負わせない)
優しい彼が、国を敵に回してまで私の時間を稼いでくれている。
なら、私がやるべきことは一つしかない。
「絶対に、治す」
私の目から、迷いも、恐怖も、すべてが消え失せた。
あるのは、私から大切な人を、大切な居場所を奪おうとする『理不尽(病魔)』に対する、剥き出しの殺意だけ。
「錬金術の神様が『不治の呪い』だと言うのなら。私が、神の領域の理を書き換えてやる」
私は、散乱する魔導書をすべて床に払い落とし、大鍋に向き直った。
もう、過去の知識も、教科書通りの調合もいらない。
私の中にある、錬金術師としてのエゴと狂気。そのすべてを、この鍋に叩き込む。
「イグニス様! 炎の温度をあと三十度上げてください! それから、魔力の波長を私の呼吸に完全に同期させて!」
「クロエ……!? よ、よし分かった。だが、これ以上の抽出はお前の魔力回路が焼け焦げるぞ!」
「構いません! 私の命を削ってでも、彼が帰ってくるまでに、絶対に『奇跡の雫』を錬成してみせます!」
天才錬金術師の狂気が、極限まで加速する。
愛する男が国を敵に回すなら。私は、世界の理を敵に回す。
反逆の騎士と、狂気の錬金術師。
最も熱く、最も過酷な戦いのタイムリミットが、今、切って落とされた。
読んでいただきありがとうございます。
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