死の奇病『黒死灰』。――迫り来る見えない脅威と、狂気すら宿る天才錬金術師の執念
死の奇病『黒死灰』。――迫り来る見えない脅威と、狂気すら宿る天才錬金術師の執念
ボコボコと不気味な音を立てて煮えたぎる大鍋。
無数の薬草の匂いが混ざり合った、むせ返るような空間。
「……違う。抽出温度を百二十度まで上げても、呪いの進行を止めるだけの『抗体』が形成されない。陽薬草の魔力と水魔石の結合率を変えれば……いや、それでは患者の心臓が耐えられない」
薄暗い錬金工房の中で、私はブツブツと独り言を呟きながら、目の前のフラスコに新たな素材を放り込んだ。
最初の感染者――あの裏通りで倒れた老婆が『黒死灰』を発症してから、三日が経過していた。
事態は、最悪の方向へと転がり落ちていた。
老婆を皮切りに、街のあちこちで同じように『黒い斑点』を浮かべて倒れる領民が続出したのだ。現在の感染者は数十名。隔離病棟はすでに悲鳴と呻き声で溢れかえっている。
私の【万物昇華】によって作り出された神話級のポーションは、確かに患者たちの命を繋ぎ止めてはいた。
だが、あくまで「進行を遅らせている」だけだ。
ポーションの効果が切れれば、呪いの斑点は再び蠢き出し、患者の皮膚をパラパラと灰に変えていく。根本的な治癒には至っていないのだ。
「クロエ。……もう丸二日、一睡もしていないだろう。少し休め」
私の横で、大鍋を熱するための炎を指先から提供し続けてくれているイグニス様が、心配そうに声をかけてくれた。
彼女もまた、神獣としての力を使って私が要求する「ミリ単位での温度調整」を不眠不休でこなしてくれている。シックな漆黒のブラウスは、汗と灰で少し汚れてしまっていた。
「休めません。今この瞬間も、おばあさんたちの体は灰に侵食されています。明日の夜には、私のポーションで引き延ばした命の限界が来る。……絶対に、それまでに私が薬を完成させなきゃいけないんです」
私は、乱れた銀髪を無造作に掻き上げ、目の下に濃い隈を作った顔で分厚い魔導書をめくった。
「私が……私がこの街のみんなを守るんです。絶対に誰も死なせない。錬金術の理が『不治の呪い』だと言うのなら、私がその理をねじ曲げてでも、解呪の式を組み上げてみせます」
恐怖はなかった。
あるのは、私の大切な居場所を脅かす『病魔』に対する、明確な怒りと執念だった。
かつて地下室で、一人で薬草をすり潰していた頃の私が持っていた、錬金術の深淵を覗き込むような没入感。
それが今、大切な人たちを救うための『狂気』にも似た執着となって、私を突き動かしていた。
――カランコロン。
工房のドアベルが鳴った。
振り返ると、大きな木箱を担いだ龍魔呂さんが立っていた。
いつもなら「おう嬢ちゃん」と気さくに笑うはずの彼だが、今日のその顔は、極道のように険しく、そして静かな怒りに満ちていた。
「……街の空気が、完全に死んでやがる。笑顔で野菜を買ってくれてた連中が、みんな死にそうな顔して閉じ籠もってやがった」
龍魔呂さんは木箱を床に置いた。
中には、ポポロ村の畑で採れたばかりの、生命力に満ち溢れたUR野菜がぎっしりと詰まっている。
「隔離病棟の奴らに、少しでも精をつけさせるために持ってきた。……嬢ちゃん。随分とヤバいツラしてんな」
「龍魔呂さん……」
龍魔呂さんは、私の血走った目と、散乱した研究資料を見て、スッと目を細めた。
そして、ポケットからマルボロを取り出し、火を点ける。
――カチッ……ジ、ボッ。
紫煙を吐き出しながら、彼は私に歩み寄り、乱れた私の頭にポンと大きな手を乗せた。
「……いいツラだ。自分の大事なモンを守るために、なりふり構わず戦ってる『プロ』の目をしてやがる」
「っ……! でも、足りないんです。私の知識でも、イグニス様の炎でも、絶対に『届かないピース』があるんです」
私は、唇を噛み締めながら龍魔呂さんに訴えた。
「黒死灰は、大地そのものの腐敗から生まれる呪い。これを浄化するには、大地から数百年という途方もない時間をかけて、清浄な魔力を限界まで吸い上げた植物……『星光華』の根が必要です。でも、そんな伝説の植物、すぐに見つかるはずが……」
「百年の魔力? 伝説の植物だぁ?」
龍魔呂さんが、鼻で笑った。
「嬢ちゃん、俺を誰だと思ってんだ。土が腐ってるなら、叩き起こしてやればいいだけだ。タネと土壌は俺が用意してやる。百年の時間なんざ、俺の『創世のクワ』と気合いで、明日までにギュッと縮めて育て上げてやるよ」
「明日までに……!? そんな無茶な……」
何百年もかかる植物を、たった一日で?
それは、農業の理屈を超えた、文字通り『命を削る』ような荒業だ。
「無茶だろうがなんだろうが、やるんだよ。……カタギが苦しんでるのを黙って見てるようなお坊ちゃんには、俺はなりたくねぇからな」
龍魔呂さんの言葉に、私の中で燻っていた狂気が、さらに熱く燃え上がった。
「……やります。龍魔呂さんが明日、その根を持ってきてくれるなら。私とイグニス様で、絶対に奇跡の特効薬を錬成してみせます」
「おう。頼んだぜ、天才錬金術師」
龍魔呂さんはニッと笑い、そのまま背を向けて工房を出て行った。
戦うのは、私だけじゃない。
この最強で最高の仲間たちがいれば、絶対に乗り越えられる。
* * *
同じ頃。
シュヴァルツ辺境伯領の、重厚な領主の館。
執務室の巨大な机の上には、領内の地図が広げられ、赤いピンがいくつも刺されていた。
それは、『黒死灰』の感染者が確認された村や区画を示すピンだ。
「閣下……。南の第三地区でも、新たに数名の感染者が。隔離病棟も、すでに収容限界を超えつつあります」
「……そうか」
報告を受けるレオンハルトの顔には、深い疲労の色が刻まれていた。
彼もまた、最初の感染者が出てから一睡もせず、軍の指揮と感染拡大を防ぐための封鎖措置に奔走していた。
最強の武力を持つ『氷の死神』であっても、目に見えない病魔を斬ることはできない。
自分の守るべき領民たちが、次々と灰になっていく恐怖に晒されている。為政者としての重圧が、彼の広い肩に重くのしかかっていた。
「クロエの工房からの報告は?」
「錬金術師クロエ殿は、神獣殿と共に不眠不休で特効薬の開発を続けておられます。しかし、まだ完成には至っていないと……」
レオンハルトは、ギュッと拳を握りしめた。
あの優しく、誰よりも他人のために涙を流せる少女が、今どれほどの重圧と戦いながら大鍋に向かっているか。痛いほどに想像がついた。
代わってやりたい。だが、自分には剣を振るうことしかできない。
その時。
執務室の扉が、慌ただしく叩かれた。
「閣下! 王都より、早馬の使者が到着いたしました! 急ぎ、お伝えしたい勅令があるとのことです!」
王都からの使者。
その言葉に、レオンハルトはスッと目を細め、冷たい騎士の顔に戻った。
アルジェント伯爵家の処断以降、新体制となった王都からの接触だ。嫌な予感しかしない。
「……通せ」
執務室に入ってきたのは、豪奢な軍服を着た王都の特使だった。
特使はレオンハルトの威圧感に一瞬怯みながらも、巻物を広げ、厳かに読み上げた。
「辺境伯レオンハルト・フォン・シュヴァルツ閣下に、王都の中枢会議より『勅命』をお伝えする。……現在、貴殿の領地にて『黒死灰』の発生が確認されたとの報告を受けた」
特使の言葉に、副官の騎士たちが息を呑む。
情報が早すぎる。王都の耳目がいかに張り巡らされているかの証左だった。
「黒死灰は、治療法が存在しない致死性の奇病。これが他領、ひいては王都にまで広がれば、国家そのものが滅びかねない未曾有のパンデミックとなる。よって、王室は苦渋の決断を下した」
特使は、巻物を巻き直すと、冷酷な目でレオンハルトを見据えた。
「――感染者が一柱でも確認された村および区画は、例外なく、領民もろとも『焼き払う』こと。この『浄化の炎』をもって、黒死灰の根絶を図るべし」
「……なっ!?」
副官が、信じられないというように声を上げた。
「馬鹿なッ! まだ発症していない健康な者もいるのだぞ! それを、村ごと生きたまま焼き殺せというのか!?」
「これは国家を守るための、為政者としての当然の決断である! 一部の犠牲で全体が救われるのなら、剣を執るのが北の盾である貴殿の役目であろう!」
特使の言葉は、冷酷だが、国家運営という視点から見れば『絶対の正論』だった。
パンデミックを防ぐための、最も確実で、最も残酷な手段。
「明日の朝までに、辺境伯軍による『浄化』が実行されない場合、王都より派遣した討伐部隊が、直接領地を焼き払いに入る。……よいな、レオンハルト閣下。これは『絶対の命令』だ」
特使が退出した後。
静まり返った執務室で、レオンハルトはただ一人、地図に刺さった赤いピンを見つめ続けていた。
領民を、自らの手で焼き殺すか。
それとも、王都の命令に背き、国家に対する『反逆者』として討伐されるか。
血塗られた為政者としての最大の試練が、不器用な氷の騎士に、無慈悲に突きつけられていた。
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