第7話 会話の堆積
冬の朝の光には、
その日だけの色があります。
二‑3 では、
いつもの店で交わされる、
ほんの少しの会話と、
その奥に積もっていくものを描きました。
光が届き、
香りが立ち、
言葉がひとつ増えるだけで、
朝の輪郭がわずかに変わります。
今日の店も、
いつもと同じように開いています。
写真立てのガラスが、窓枠の格子越しに入った光を細く受けていた。
白い反射ではなかった。
薄い、水色に近い光だった。
冬の朝の空の色が、ガラスの面にそのまま乗り移ったような色だった。
像はぼやけていた。
完全には消えていなかった。
* * *
扉を引いたとき、すでに未織はカウンターの中にいた。
男が入ってくる気配に、振り向いた。
「いらっしゃい」
未織は視線を戻した。光がカウンターの端で止まっていた。
男は椅子に座った。
いつもの椅子だった。
未織がカップを並べた。
六つ、横一列に。
指先が棚から一つずつ取り出すたびに、小さな音がした。
磁器と木の、薄い音だった。
男はカップを見た。
いつもと同じ六つだった。
白磁の薄いもの。
土の色の厚いもの。
青い染付の小ぶりなもの。
金縁のもの。
白い背の高いマグ。
緑釉のもの。
男の手が、緑釉のカップの前で止まった。
鮮やかだった。
冬の朝の薄い光の中で、そのカップだけが自分の色を持っていた。
取っ手が小さかった。
側面に、南米風の模様が刻まれていた。
線が細く、深かった。
手を伸ばした。
持ち上げると、予想より軽かった。
釉薬の表面が、指の腹に滑らかに当たった。
冷たかった。
でも、磁器の冷たさとは少しちがった。
土の温度が、薄く残っているような冷たさだった。
未織はカップを受け取った。
男を見た。
それから奥へ向かった。
しばらくして、甘い層の香りが空気に広がった。
今日は別の香りだった。
柑橘の酸ではなかった。
チョコレートに近い、甘く重い層と、その下に薄いナッツの気配が混じっていた。
温度が高かった。
湯気が太かった。
未織が戻ってきた。
緑釉のカップにコーヒーを注いだ。
「甘みがありますわ。そのカップに合うと思て」
未織はカップを置いた。
男はカップを持った。
両手で包んだ。
熱が、釉薬の表面越しに掌に伝わった。
飲んだ。
甘みがあった。
舌の中央に乗ってくる、落ち着いた甘みだった。
その後ろにナッツに似た余韻が続いた。
滑らかだった。
角がなかった。
窓の外を、何かが通り過ぎた。
人の気配だった。
商店街の外れの路地に、朝の人通りが始まっていた。
「今日は晴れましたね」
男が言った。
声に出したのは、自分でも少し意外だった。
言葉が先に出て、それから気づいた。
未織がカウンターの奥から顔を上げた。
窓の方を見た。
それから男を見た。
「せやな」
それだけだった。
沈黙があった。
沈黙は不快ではなかった。
コーヒーの香りが空気の中にあって、
窓枠の格子が薄い光の線を床に落としていた。
その線が、カウンターの端まで届いていた。
「曇りの日は、店はやってないんですか」
気づいたら、言葉が出ていた。
未織は手を止めた。
男を見た。
「開けへんのよ」
それ以上は語らない。
男は頷いた。
「そういうもんやし」
未織が続けた。
それきり、余計な言葉はなかった。
男は黙ってカップを口に運んだ。
甘みが続いていた。
ナッツの余韻が舌の奥に残った。
窓枠の格子の影が、床の上でわずかに動いていた。
太陽の角度が変わっていた。
「この店、昼もやってるんですか」
男がふたたび尋ねた。
「開いてますわ」
「夜は?」
「閉めます」
「何時に?」
「日が暮れたら」
それきり、会話は途切れた。
コーヒーを飲み終えた。
カップを置いた。
緑釉の表面が、薄い光を受けて鈍く光った。
「ごちそうさまでした」
「おおきに」
初めて聞いた言葉だった。
男は椅子を引いた。
立ち上がった。
扉を開けた。
外の冷気が入ってきた。
格子の影が、扉の開いた動きで一瞬揺れた。
* * *
写真立てのガラスに、窓枠の格子の影が細く落ちていた。
水色に近い薄い光が、ガラスの面に乗ったままだった。
像はぼやけていた。
店内には、甘い香りの余韻だけが残っていた。
未織は、カウンターの奥にいた。
言葉は多くありませんでしたが、
光の位置と、
カップの色と、
香りの層が、
その日の会話を形づくりました。
未織の返事のあと、
光がカウンターの端で止まっていたことが、
今日の朝のすべてだったのかもしれません。
また次の朝も、
光が届けば、
この店は開きます。




