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冬麗(とうれい)の光射す喫茶店 ― ひと冬の奇跡 ―  作者: ちとせ鶫
第1章 ―― 出会い・結像

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第6話 閉じた朝

冬の朝には、

光が届かない日があります。


第6話では、

その“届かない朝”を描きました。


影がなく、

奥行きがなく、

香りもない。


何も起きない朝が、

物語の輪郭を逆に浮かび上がらせます。

 写真立ては、路地の奥の暗がりの中にあるはずだった。

 光のない朝だった。

 どこにも反射するものがなく、金属の縁も、ガラスの面も、ただそこに在るだけで何も返さなかった。

 像がそこにあるかどうか、外からは確かめようがなかった。


     * * *


 目が覚めたとき、天井が白かった。


 いつもとちがう白さだった。

 窓からの光が弱く、均質で、影を持っていなかった。

 角のない白さ。

 方向のない光。


 男は起き上がった。

 着替えた。

 マフラーを巻いた。

 扉を開けた。


 外に出た瞬間、空気がちがうことがわかった。


 冷たさは同じだった。

 気温だけなら昨日と大差なかった。

 ちがうのは、光がないことだった。

 影がなかった。

 地面も、壁も、自分の手も、すべてが同じ明るさで平らに見えた。

 奥行きが消えていた。


 商店街の手前で、男は空を見た。


 雲だった。

 厚い雲が、空全体を覆っていた。

 層の厚みが均質で、どこかに隙間があるようには見えなかった。

 どこから太陽が当たっているのかも、判断できなかった。


 男は歩いた。


 商店街のシャッターが並んでいた。

 閉まったままだった。

 いつもと同じ朝だった。

 いつもとちがうのは、シャッターの金属面に光が反射していないことだった。

 光沢のあるはずの面が、ただの灰色の板として並んでいた。


 惣菜屋の前を通り過ぎた。

 金物店の前を通り過ぎた。


 扉の前に着いた。


 引き戸の溝に、いつものように砂が積もっていた。

 木の表面が、いつものように古い茶色をしていた。

 変わっていなかった。


 男は手をかけた。


 引いた。


 動かなかった。


 もう一度、引いた。

 同じ力で。


 動かなかった。


 男は手を離した。


 扉の木目を見た。

 塗り直された痕跡のない、年月だけが染み込んだ茶色だった。

 どこも傷んでいなかった。

 どこも変わっていなかった。

 ただ、開かなかった。


 男は左右を見た。


 路地に人はいなかった。

 どの店もまだ閉まっていた。

 曇り空が、路地の上で均質に白かった。


 鍵がかかっているのか。

 それとも引き方がちがうのか。

 男は考えた。


 考えてから、考えたこと自体を、頭の隅に置いた。


 もう一度だけ、扉に手をかけた。

 今度は力を抜いて、ゆっくりと引いた。


 動かなかった。


 コーヒーの香りがなかった。

 路地には、冷えた石と、どこかの排気の混じった空気だけがあった。

 湿度が高かった。

 雲の重さが、空気の密度を上げているように感じた。


 男は扉から手を離した。


 一歩、後ろに引いた。

 扉を見た。

 写真立ての在る場所を、扉越しに想像した。

 カウンターの上、窓からの光が届く位置。

 今日その位置に光は届いていない。

 届いていないから、額縁は反射しない。

 反射しないから、ガラスの面は光を飛ばさない。

 飛ばさないから、像はそこにある。


 写真の中で、女が少し下を向いているはずだった。


 男は来た道を戻り始めた。


 石畳の目地が、平らな光の中で均質に見えた。

 いつもなら、朝の斜光が目地の陰影を際立てていた。

 今日はどの目地も同じ深さに見えた。

 石と石の間の溝が、ただの線として地面に引かれているだけだった。


 商店街を抜けた。


 角を曲がって、いつもとは別の道を歩いた。

 特に理由はなかった。

 足が自然に曲がった。


 別の路地に入った。

 そこにも光はなかった。

 壁も地面も、均質な明るさで立っていた。


 男は歩きながら、手をポケットに入れた。

 マフラーの端が、湿った空気を含んでいた。

 乾いた冬の空気ではなかった。

 重く、体に絡みついてくるような湿度だった。


 今日は昼も曇りのままかもしれなかった。

 明日は晴れるかもしれなかった。

 明日晴れれば、扉は開くかもしれなかった。


 男はそこまで考えて、止めた。


 止めたことを、確認するような動作はしなかった。

 ただ、考えが途切れて、足音だけが続いた。


 路地の先に、大通りが見えた。

 車が通っていた。

 信号が青に変わった。


 男は歩いた。


     * * *


 写真立ては、暗がりの中にあった。

 光のない朝だった。

 ガラスの面は何も反射せず、像はそこにあった。

 女が少し下を向いていた。

 何を見ているのかは、写真の外にあった。

 店内に、人はいなかった。

 コーヒーの香りも、なかった。

光が当たらない日は、

何も結ばれません。


扉も開かず、

香りもなく、

写真の中の像だけが静かに残ります。


第6話は、

未織が“いない朝”ではなく、

“光が働かない朝”を描いた回でした。


次の話では、

この欠落が、

男の中でどのように形を持つのかが

少しずつ見えてきます。

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