第22話 いつもの朝
写真立てのガラスが、光を正面から受けていた。
三月の朝の光だった。
六時台の光だった。
強くなかった。
でも、確実にガラスの面に当たっていた。
像は飛んでいた。
白く、均質に、飛んでいた。
* * *
その朝、男は昨日より三十分早く路地に入った。
昨日、間に合わなかった。
三十分早く来れば、届くはずだった。
男はそれを計算しなかった。
ただ、体が三十分早く動いた。
扉の前に着いた。
光が木目に当たっていた。
取っ手を引いた。
開いた。
未織がいた。
カウンターの内側で、カップを棚から出していた。
振り向いた。
「いらっしゃい」
いつもと同じ声だった。
男は椅子に座った。
未織がカップを並べた。
六つ、横一列に。
一つずつ、音もなく。
男はカップを見た。
手が、金縁のカップの前で止まった。
縁に細い金の線が一本、均質に走っていた。
持ち上げた。
白い磁器の表面が、朝の光を柔らかく返した。
未織はカップを受け取った。
奥へ向かった。
工事の音が届いた。
遠かった。
今日も遠かった。
金属を叩く、低く鈍い音が、壁を通り抜けてかすかに届いた。
男はその音を聞いた。
窓の外を見なかった。
香りが来た。
チョコレートに近い、甘く重い層だった。
その下に薄いナッツの気配が続いた。
以前初めて嗅いだが、印象深い香りだった。
未織が戻ってきた。
金縁のカップにコーヒーを注いだ。
湯気が上がった。
三月の朝の光の中で、湯気が白く見えた。
「甘みがあります」
未織が言った。
男はカップを持った。
金縁の線が、指の腹に触れた。
細い縁だった。
ひとくち飲んだ。
丸かった。
甘みが舌の中央に乗った。
落ち着いた甘みだった。
ナッツの余韻が続いた。
窓からの光が、カウンターの上を動いていた。
写真立てのガラスが、強く輝いていた。
像は飛んでいた。
男はコーヒーを飲みながら、その白さを見た。
いつもと同じだった。
カップが手の中にあった。
香りが空気の中にあった。
未織がカウンターの奥にいた。
光が写真立てを飛ばしていた。
工事の音が遠くで続いていた。
全部、そこにあった。
男はコーヒーを飲んだ。
甘みが続いた。
ナッツの余韻が続いた。
「今日は早いですね」
未織が言った。
振り向かずに言った。
「はい」
男が言った。
それだけだった。そうそれだけ。
未織は何かをしていた。
男の方を見なかった。
棚の位置を整えていた。
指先が、カップの取っ手の向きを揃えていた。
男はその動きを見ていた。
いつもと同じ動きだった。
同じ速度だった。
同じ丁寧さだった。
コーヒーの残りが、カップの底に少し残っていた。
男はそれを飲み干さずに、カップを置いた。
置いてから、余韻を楽しんだ。
また飲んだ。
飲み干した。
カップを置いた。
「ごちそうさまでした」
「おおきに」
男は立ち上がった。
立ち上がる前に、一度だけ写真立てを見た。
光が飛んでいた。
像は見えなかった。
白い光だけがあった。
扉を引いた。
外に出た。
三月の朝の光が、路地を照らしていた。
影が長かった。
工事の音が届いた。
遠かった。
男は歩いた。
歩きながら、カップの金縁の感触が指の腹に残っていた。
残っていた、と男は思った。
実際には残っていなかった。
でも、そこにあった気がした。
* * *
写真立てのガラスに、光が当たり続けていた。
像は飛んでいた。
金縁のカップが、カウンターの上に置かれていた。
コーヒーの香りが、空気の中に残っていた。
未織は、カウンターの奥にいた。
工事の音が、遠くで届いていた。




