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冬麗(とうれい)の光射す喫茶店 ― ひと冬の奇跡 ―  作者: ちとせ鶫
第5章 ―― 最後の結像

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第20話 工事の音

 写真立てのガラスが、青みの強い朝の光を受けていた。

 夜明けからまだ時間が経っていない光だった。

 紺色から白色へ移行する途中の、薄く青い光だった。

 ガラスの面が均質に光っていた。

 像はぼやけていた。

 完全には消えていなかった。

 青い光の膜の下に、女の輪郭が透けていた。


     * * *


 その朝、男は六時半に路地に入った。


 三月に入って、男の起きる時刻は少しずつ早くなっていた。

 早くなった理由を、男は問わなかった。

 体が、勝手に前に進んでいた。


 空がまだ青かった。

 夜明けからそれほど時間が経っていなかった。

 東の方向が少し明るく、その明るさが街全体の空気に薄く溶けていた。

 影があった。

 でも、まだ薄かった。

 物の輪郭を際立てるほどの影ではなかった。


 商店街の手前で、音がした。


 その音は遠くから聞こえた。

 聞こえた方向は北の方角だった。

 それは重機の音だった。

 金属が何かを叩く、低く鈍い音が、朝の空気を伝わって届いた。


 男は立ち止まらなかった。


 音を聞いた。

 音が遠いことを確認した。

 そして、再び歩き続けた。


 商店街に入った。


 シャッターが並んでいた。

 閉まったままだった。

 いつもと同じだった。


 惣菜屋の前を通った。

 金物店の前を通った。


 扉の前に着いた。


 青みのある光が、木目を照らしていた。

 長い年月が染み込んだだけの茶色が、青みの中で少し冷たい色に見えた。


 男は扉の取っ手に手をかけた。

 引いた。

 開いた。


 香りが来た。


 今日の香りは、入った瞬間に濃く届いた。

 何の香りかを、男は分類しなかった。

 ただ、深く、重く、空気の全体に溶けている香りだった。


 未織がいた。


 カウンターの内側で、カップを棚に戻していた。

 振り向いた。


「いらっしゃい」


 男は椅子に座った。


 未織がカップを並べた。

 六つ、横一列に。


 男の手が止まった。

 どれを選ぶか、一瞬迷った。

 迷った自分に、男は気づいた。

 この店に通い始めて、迷うことが少なかった。

 手が自然に動いた。

 今日は、手が一瞬止まった。


 青い染付の小ぶりなものに、手が伸びた。


 持ち上げると、軽かった。

 以前選んだときと同じ軽さだった。


 未織はカップを受け取った。

 奥へ向かった。


 工事の音が、また聞こえた。


 遠かった。

 店の壁と扉を通り抜けて、かすかに届いた。

 金属を叩く、低く鈍い音だった。


 男はその音を聞いた。

 それから、窓の外を見た。

 窓の外の路地に、変わったものはなかった。

 石畳が並んでいた。

 青みのある朝の光が、路地を低く照らしていた。


 未織が戻ってきた。

 青い染付のカップにコーヒーを注いだ。


 何も言わなかった。


 男はカップを持った。

 軽かった。

 熱が薄い磁器をすぐに通ってきた。

 そのまま飲んだ。


 舌の上に、複数の層が同時に来た。

 甘みと苦みと、その間にある何かが、判別できない速度で重なった。

 何の豆かを男は聞かなかった。

 聞かなくても、良かった。


 窓からの光が、カウンターの上を動いていた。


 青みが、少しずつ薄くなっていた。

 光が、夜明けの青から、白へ向かっていた。

 写真立てのガラスの反射が、均質な光から、少し強い光に変わり始めていた。


 工事の音が、また届いた。


 今度は少し長かった。

 何かを崩すような、連続した音だった。


 男はその音を聞いた。


「工事してますね、近くで」


 男が言った。


 未織はカウンターの奥にいた。

 少し間があった。


「そうみたいですね」


 それだけ。特に会話は続かなかった。


 男はコーヒーを飲んだ。

 光が写真立てに近づいていた。


 ガラスの面が、強く輝き始めた。

 像が消えていった。

 白く、均質に、飛んでいった。


 男はその白さを見た。


 しばらく見ていた。


 コーヒーを飲み終えた。

 カップを置いた。


「ごちそうさまでした」


「おおきに」


 立ち上がった。

 扉を引いた。

 外に出た。


 青みのある朝の空気が、体の表面に当たった。

 光が少し強くなっていた。

 路地の影が、少しはっきりしていた。


 工事の音が、また届いた。

 遠かった。

 でも、確実にそこにあった。


 男は歩いた。


     * * *


 写真立てのガラスが、白く輝いていた。

 像は飛んでいた。

 青みのある光が、少しずつ白に向かっていた。

 工事の音が、遠くで続いていた。

 未織は、カウンターの奥にいた。

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