第20話 工事の音
写真立てのガラスが、青みの強い朝の光を受けていた。
夜明けからまだ時間が経っていない光だった。
紺色から白色へ移行する途中の、薄く青い光だった。
ガラスの面が均質に光っていた。
像はぼやけていた。
完全には消えていなかった。
青い光の膜の下に、女の輪郭が透けていた。
* * *
その朝、男は六時半に路地に入った。
三月に入って、男の起きる時刻は少しずつ早くなっていた。
早くなった理由を、男は問わなかった。
体が、勝手に前に進んでいた。
空がまだ青かった。
夜明けからそれほど時間が経っていなかった。
東の方向が少し明るく、その明るさが街全体の空気に薄く溶けていた。
影があった。
でも、まだ薄かった。
物の輪郭を際立てるほどの影ではなかった。
商店街の手前で、音がした。
その音は遠くから聞こえた。
聞こえた方向は北の方角だった。
それは重機の音だった。
金属が何かを叩く、低く鈍い音が、朝の空気を伝わって届いた。
男は立ち止まらなかった。
音を聞いた。
音が遠いことを確認した。
そして、再び歩き続けた。
商店街に入った。
シャッターが並んでいた。
閉まったままだった。
いつもと同じだった。
惣菜屋の前を通った。
金物店の前を通った。
扉の前に着いた。
青みのある光が、木目を照らしていた。
長い年月が染み込んだだけの茶色が、青みの中で少し冷たい色に見えた。
男は扉の取っ手に手をかけた。
引いた。
開いた。
香りが来た。
今日の香りは、入った瞬間に濃く届いた。
何の香りかを、男は分類しなかった。
ただ、深く、重く、空気の全体に溶けている香りだった。
未織がいた。
カウンターの内側で、カップを棚に戻していた。
振り向いた。
「いらっしゃい」
男は椅子に座った。
未織がカップを並べた。
六つ、横一列に。
男の手が止まった。
どれを選ぶか、一瞬迷った。
迷った自分に、男は気づいた。
この店に通い始めて、迷うことが少なかった。
手が自然に動いた。
今日は、手が一瞬止まった。
青い染付の小ぶりなものに、手が伸びた。
持ち上げると、軽かった。
以前選んだときと同じ軽さだった。
未織はカップを受け取った。
奥へ向かった。
工事の音が、また聞こえた。
遠かった。
店の壁と扉を通り抜けて、かすかに届いた。
金属を叩く、低く鈍い音だった。
男はその音を聞いた。
それから、窓の外を見た。
窓の外の路地に、変わったものはなかった。
石畳が並んでいた。
青みのある朝の光が、路地を低く照らしていた。
未織が戻ってきた。
青い染付のカップにコーヒーを注いだ。
何も言わなかった。
男はカップを持った。
軽かった。
熱が薄い磁器をすぐに通ってきた。
そのまま飲んだ。
舌の上に、複数の層が同時に来た。
甘みと苦みと、その間にある何かが、判別できない速度で重なった。
何の豆かを男は聞かなかった。
聞かなくても、良かった。
窓からの光が、カウンターの上を動いていた。
青みが、少しずつ薄くなっていた。
光が、夜明けの青から、白へ向かっていた。
写真立てのガラスの反射が、均質な光から、少し強い光に変わり始めていた。
工事の音が、また届いた。
今度は少し長かった。
何かを崩すような、連続した音だった。
男はその音を聞いた。
「工事してますね、近くで」
男が言った。
未織はカウンターの奥にいた。
少し間があった。
「そうみたいですね」
それだけ。特に会話は続かなかった。
男はコーヒーを飲んだ。
光が写真立てに近づいていた。
ガラスの面が、強く輝き始めた。
像が消えていった。
白く、均質に、飛んでいった。
男はその白さを見た。
しばらく見ていた。
コーヒーを飲み終えた。
カップを置いた。
「ごちそうさまでした」
「おおきに」
立ち上がった。
扉を引いた。
外に出た。
青みのある朝の空気が、体の表面に当たった。
光が少し強くなっていた。
路地の影が、少しはっきりしていた。
工事の音が、また届いた。
遠かった。
でも、確実にそこにあった。
男は歩いた。
* * *
写真立てのガラスが、白く輝いていた。
像は飛んでいた。
青みのある光が、少しずつ白に向かっていた。
工事の音が、遠くで続いていた。
未織は、カウンターの奥にいた。




