第19話 空白の朝に残るもの
写真立ては、光の中にあるはずだった。
三月の朝日が路地に差し込んでいた。
光の角度は、扉の正面まで届くはずだった。
でも、扉は開かなかった。
ガラスの面が何を映しているのか、外からは確かめる方法がなかった。
* * *
その朝、光があった。
石畳の目地が、光の中でくっきりと見えた。
影が長かった。
男の影が、石畳の上で細長く伸びていた。
三月の朝日が、路地を斜めに照らしていた。
扉の木目が、光の中で浮き上がっていた。
長い年月が染み込んだだけの茶色が、光を受けて、明るい茶色に見えた。
男は手をかけた。
引いた。
動かなかった。
男は手を離さなかった。
引き戸の溝の砂が、指の先から見えた。
積もったままだった。
変わっていなかった。
もう一度、引いた。
動かなかった。
男は手を離した。
一歩、後ろに引いた。
扉を見た。
光が当たっていた。
木目が浮き上がっていた。
晴れていた。
それでも、開かなかった。
男は動かなかった。
来た道を戻る、という動作が、起きなかった。
足が、路地の石畳に立っていた。
扉を見ていた。
光が動いていた。
石畳の上の男の影が、ほんのわずかに動いた。
太陽が動いていた。
光の帯の端が、扉の面を少しずつ移動していた。
男はそれを見ていた。
何を待っているのかを、言葉にしなかった。
言葉にする必要がなかった。
ただ、立っていた。
路地の空気が冷たかった。
三月の朝の冷気だった。
二月より少し弱かった。
でも、まだ冷たかった。
マフラーの端が、その冷気を少し含んだ。
光が扉の面を移動した。
木目が光の中で浮き上がる部分が、少しずつ変わっていった。
扉の上部から、中央へ。
中央から、下部へ。
男は扉の下部が光の中に入るのを見た。
引き戸の溝の砂が、光の中でくっきりと見えた。
男は、もう一度だけ手をかけた。
引いた。
動かなかった。
手を離した。
路地に、自分の影だけがあった。
男の影が、石畳の目地を越えて伸びていた。
しばらく、その影を見ていた。
それから、歩き出した。
来た道ではなかった。
別の方向だった。
理由はなかった。
足が、別の方向に向いた。
別の路地に入った。
そこにも光があった。
石畳の目地が、光の中でくっきりと見えた。
どこでも、朝の光は同じように石畳を照らしていた。
男は歩いた。
コーヒーの香りが、どこにもなかった。
白磁のカップの軽さが、手の中になかった。
未織の声が、空気の中になかった。
あるのは、三月の朝の冷気と、光と、石畳の目地だけだった。
それで、十分だった、とは思わなかった。
十分ではなかった、とも思わなかった。
ただ、歩いた。
* * *
写真立ては、光の中にあった。
ガラスの面が何を映しているのか、誰も確かめなかった。
路地に、男の足音の残響だけがあった。
やがて、それも消えた。




