第18話 光の短さ
写真立てのガラスが、光を受けていた。
三月の朝日だった。
冬より高く、冬より速く動く光だった。
ガラスの面が輝いていた。
像は飛んでいた。
でも、その輝きが、以前より早く移動していた。
男には、そう見えた。
* * *
扉を引いて入ると、未織がカップを並べていた。
今日は男が入る前から、六つが並んでいた。
未織が先に気づいていたのか、偶然並べ終わったところだったのか、男にはわからなかった。
「いらっしゃい」
男は椅子に座った。
カップを見た。
手が、白磁の薄いものの前で止まった。
縁が少し欠けていた。
欠けた部分が、使い込まれてなめらかになっていた。
最初に選んだカップだった。
男は手を伸ばした。
持ち上げた。
軽かった。
指の腹に、薄い磁器の冷たさが伝わった。
最初と同じ重さだった。
最初と同じ薄さだった。
未織はカップを受け取った。
奥へ向かった。
しばらくして、香りが来た。
柑橘に近い、明るく鋭い酸の気配だった。
花とも湿った葉とも取れる、判断のつかない複雑さが続いた。
最初の朝と同じ香りだった。
未織が戻ってきた。
白磁のカップにコーヒーを注いだ。
「また同じ豆にしました」
未織が言った。
「最初に出したのと同じです」
男はカップを両手で包んだ。
薄い磁器越しに、熱が掌に伝わった。
最初の朝と同じ熱だった。
飲んだ。
酸みがあった。
舌の奥まで届く、透明な酸みだった。
その後ろに、花に似た何かが残った。
同じだった。
最初の一口と、同じだった。
窓からの光が、カウンターの上を動いていた。
男はその動きを見た。
速かった。
以前より速い、と男は思った。
三月の太陽は、十二月より高い位置を通る。
高い位置を通るから、光の角度の変化が速い。
同じ時間でも、光の帯がより多くの距離を動く。
写真立てのガラスが光っていた。
男はそれを見た。
光が当たっている、という事実があった。
でも、その光がいつ外れるかを、男は考え始めていた。
考え始めていた、というより、体が先に知っていた。
あと少し、という感覚が、腹の底にあった。
コーヒーを飲んだ。
透明な酸みが、舌の奥で続いていた。
花に似た余韻が、また来た。
最初の朝と、同じだった。
あのとき、この酸みを最初に飲んだ朝と、今の間に、何があったか。
男はそれを頭の中に並べなかった。
並べることをしなかった。
ただ、同じ酸みが舌の上にあって、窓からの光が以前より速く動いていた。
カウンターの光の帯が、写真立てを過ぎた。
ガラスの反射が弱まった。
像の縁が現れ始めた。
女が少し下を向いていた。
男はカップを置こうとした。
コーヒーがまだ残っていた。
残っていたが、光が外れていた。
「今日は早いですね」
未織が言った。
振り向かずに、言った。
「光が」
男が言った。
「そうですね」
未織が返した。
「三月になったら、少し速うなります」
それだけだった。
説明ではなかった。
確認だった。
男はコーヒーの残りを飲んだ。
一口で飲んだ。
最後の一口にも、透明な酸みがあった。
カップを置いた。
「ごちそうさまでした」
「おおきに」
立ち上がった。
扉を引いた。
外に出た。
三月の朝日が、石畳を低く照らしていた。
影が長かった。
太陽は低かった。
でも、動く速さが、冬とちがった。
男は歩いた。
歩きながら、最初の朝のことを思った。
思った、というより、白磁のカップの軽さが手の中に残っていた。
最初の朝と同じ軽さが。
* * *
写真立てのガラスに、光はもう当たっていなかった。
像が見えた。
女が少し下を向いていた。
白磁のカップが、カウンターの上に置かれていた。
縁の欠けた部分が、薄い光の中でなめらかに光っていた。




