第17話 早く来すぎた朝
写真立てのガラスに、光が届いていなかった。
夜明け直後の薄い光が、窓の外にあった。
でも角度が足りなかった。
路地の建物が、その光を遮っていた。
ガラスの面は暗かった。
反射もなかった。
像は見えなかった。
見えないのではなく、暗がりの中に在った。
* * *
その朝、男はいつもより早く着いた。
着いた、というより、気づいたら着いていた。
三月に入って最初の週から、男は少しずつ早く起きていた。
理由はなかった。
眠りが浅くなった、というわけでもなかった。
ただ、目が覚める時刻が、少しずつ前にずれていた。
体が、何かを先取りしようとしていた。
何を先取りしようとしているのかを、男は考えなかった。
扉の前に着いた。
暗かった。
路地に、夜明け直後の薄い光があった。
太陽はまだ建物の向こうにあった。
空が明るくなり始めているのはわかった。
でも光の帯は、まだ路地の石畳まで届いていなかった。
扉の木目が、薄暗い中で見えた。
長い年月が染み込んだだけの茶色だった。
男は手をかけた。
引いた。
開いた。
店内に入った。
薄暗かった。
窓からの光が弱かった。
カウンターの上に光の帯はなかった。
写真立てのガラスに、反射はなかった。
静かだった。
コーヒーの香りがあった。
薄かった。
前日の残り香か、今朝の準備が始まる前の、まだ薄い段階の香りだった。
焙煎の底の苦みではなかった。
空気の中に、ほんのわずかに混じっている、というだけの薄さだった。
未織がいなかった。
カウンターの内側が、空だった。
棚にカップが並んでいた。
椅子が整然と並んでいた。
カウンターの木が、均質に光っていた。
ただ、誰もいなかった。
男は少しの間、扉の前に立っていた。
戻るべきかどうか、考えた。
考えてから、椅子に座った。
カウンターの前の椅子だった。
いつもの椅子だった。
薄暗い店内で、男は写真立てを見た。
暗がりの中に在った。
ガラスの面が反射していなかった。
でも、像はそこにあるはずだった。
暗くて見えないだけだった。
男は待った。
何を待っているかを、言葉にしなかった。
ただ、椅子に座っていた。
外の光が、少しずつ強くなっていた。
窓の外の空が、夜明けの青から、白に向かっていた。
その変化が、店内の薄暗さを少しずつ変えていた。
暗かったものが、暗いままだが、ほんのわずかに明るくなっていた。
カウンターの木の表面が、光を返し始めた。
均質な、薄い光だった。
男は写真立てを見ていた。
ガラスの面が、まだ暗かった。
外の光が、また少し強くなった。
窓枠の影が、床に薄く落ち始めた。
方向があった。
光の方向が、生まれ始めていた。
男はそれを見ていた。
窓枠の影がはっきりしてきた。
光の帯が、窓の下から床に入り始めた。
薄かった。
でも、あった。
帯の端が、カウンターの縁に触れた。
触れて、カウンターの板目の上を、ゆっくりと動き始めた。
男は息を止めた。
止めたことに、少し遅れて気づいた。
光の帯が、写真立てに向かっていた。
ゆっくりだった。
見ていても動いているとわからないくらいゆっくりだった。
でも、確実に動いていた。
写真立ての縁に、光が触れた。
金属の縁が、細く光った。
次に、ガラスの面に光が当たった。
ガラスが、薄く輝いた。
完全に飛ぶほどの強さではなかった。
薄い光が、ガラスの面を均質に照らした。
その中に、像が浮かんだ。
女が写っていた。
カウンターの内側に立っている。
視線はこちらを向いていない。
少し下を向いている。
輪郭が、鮮明だった。
男はその輪郭を、しばらく見ていた。
「おはようございます」
声がした。
振り向いた。
未織が扉の前に立っていた。
外から入ってきた気配だった。
マフラーをしていた。
冬の外気が、扉の開いた隙間から入ってきた。
「早いですね」
未織が言った。
「そうですね」
男が言った。
それだけのことだった。
未織はマフラーを外した。
カウンターの内側に入った。
何かを始めた。
光が、写真立てのガラスの面を、薄く照らし続けていた。
像が、ぼんやりと見えていた。
「少し待ってもらえますか」
「はい」
男はカウンターの前の椅子に座ったまま、窓からの光が動くのを見ていた。
* * *
光が写真立てのガラスを薄く照らしていた。
像が浮かんでいた。
女が少し下を向いていた。
未織が、カウンターの奥で何かをしていた。
コーヒーの香りが、少しずつ濃くなっていた。




