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冬麗(とうれい)の光射す喫茶店 ― ひと冬の奇跡 ―  作者: ちとせ鶫
第4章 ―― 揺らぎ・空白

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第16話 晴れた朝に

 写真立てのガラスが、清澄な朝の光を受けていた。

 白くも黄色くも橙色でもない、三月の光だった。

 冬の光より少し高く、少し強く、空気の中の余分なものを全部取り除いたような透   明さだった。

 ガラスの面が、静かに強く輝いていた。

 像は飛んでいた。


     * * *


 目が覚めたとき、天井がちがった。


 影があった。

 窓枠の影が、天井の白い面に薄く落ちていた。

 光の方向があった。

 方向のある光が、窓から入っていた。


 男は起き上がった。


 着替えた。

 マフラーを巻いた。

 扉を開けた。


 外に出た瞬間、光が皮膚に当たった。


 刃のような冷気ではなかった。

 かつてそうだった冷気が、三月の光を含んで、わずかに別のものになっていた。

 冷たかった。

 でも、光があった。


 石畳の目地が、光の中でくっきりと見えた。

 影が長かった。

 でも、冬の影より短かった。

 季節が、ほんの少し動いていた。


 商店街の抜け道を通った。


 惣菜屋の前を通った。

 金物店の前を通った。


 扉の前に着いた。


 光が当たっていた。

 木目が、光の中で浮き上がっていた。

 長い年月が染み込んだだけの茶色が、光を受けて、少し明るい茶色に見えた。


 男は手をかけた。


 引いた。


 開いた。


 音もなく、摩擦もなく、扉は開いた。

 コーヒーの香りが来た。


 深く、重く、焙煎の芯まで届くような香りだった。

 同じ豆の別の顔だった。

 かつての柑橘の酸ではなかった。

 もっと下の層、土に近い場所から来る香りだった。


 未織がいた。


 カウンターの内側で、何かをしていた。

 男が入ってくる気配に、振り向いた。


 目が合った。


「いらっしゃい」


 声は変わっていなかった。

 抑揚も、速度も、空気の密度に合った過不足のなさも、変わっていなかった。


 男は椅子に座った。


 未織はカップを並べた。

 六つ、横一列に。


 男の手が、土の色の厚いカップの前で止まった。

 重かった。

 持ち上げると、両手が必要だった。

 表面に、土の粒子の粗さが残っていた。

 焼き締められた土の感触が、指の腹に当たった。


 未織はカップを受け取った。

 奥へ向かった。


 香りが濃くなった。

 深かった。

 焙煎の芯にあるものが、直接鼻腔に届くような深さだった。

 甘みがあった。

 苦みがあった。

 その二つが、どちらが先かわからない速度で重なっていた。


 未織が戻ってきた。

 土の色の厚いカップにコーヒーを注いだ。

 湯気が上がった。

 三月の清澄な光の中で、湯気が白く、真っすぐ上がった。


「深く焼きました」


 未織が言った。


「同じ豆でも、焼き方が変わると別のものになります」


 男はカップを両手で包んだ。

 重かった。

 熱が、厚い土の壁をゆっくりと通ってきた。

 急がなかった。

 時間をかけて、掌の全体に伝わった。


 飲んだ。


 深かった。

 苦みが最初に来た。

 長く、落ち着いた苦みだった。

 その後ろに、甘みが来た。

 焦げた砂糖に近い、深みのある甘みだった。

 二つが重なって、舌の奥に残った。


 窓からの光が、カウンターの上を走っていた。


 写真立てのガラスが、強く光っていた。

 像が飛んでいた。


 男はその白い光を見た。


 何日ぶりかを、男は数えなかった。

 数えることを、しなかった。

 五日間来られなかった、という事実が、頭の中にあった。

 でも、それを言葉にする動作が、男の中で起きなかった。


 未織も、何も言わなかった。


 男が何日ぶりに来たかを、未織が知っているかどうか、男にはわからなかった。

 知っていて、言わないのか。

 知らないのか。

 どちらかを確かめることを、男はしなかった。


 コーヒーが、舌の奥で続いていた。


 甘みと苦みが、ゆっくりと溶けていった。

 光が、写真立てのガラスから少しだけ角度を変えた。

 ガラスの反射が弱まった。

 像の縁が、薄く現れ始めた。


 男はカップを置いた。


「ごちそうさまでした」


「おおきに」


 立ち上がった。

 扉を引いた。

 外に出た。


 三月の光が、石畳を低く照らしていた。

 影が長かった。

 でも、五日前の曇天の路地とは別のものだった。

 光があった。

 影を作る光が、あった。


 男は歩いた。


     * * *


 写真立てのガラスに、清澄な光が当たっていた。

 像の縁が、薄く見え始めていた。

 土の色のカップが、カウンターの上に置かれていた。

 湯気の痕跡が、もうなかった。

 未織は、カウンターの奥にいた。

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