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冬麗(とうれい)の光射す喫茶店 ― ひと冬の奇跡 ―  作者: ちとせ鶫
第3章 ―― 深度・写真

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第13話 未織の手

 写真立てのガラスに、薄い屈折光が当たっていた。

 直射ではなかった。

 窓ガラスの縁を通ったような、わずかに虹色を帯びた光だった。

 像は消えていなかった。

 薄い光の膜の下に、女の輪郭が透けていた。

 鮮明だった。


     * * *


 その朝、霜が降りていた。


 石畳の目地に、細かい白が積もっていた。

 霜だった。

 気温が下がった夜の痕跡が、朝の光の中でゆっくりと溶けかけていた。

 溶けかけの霜が光を散らして、路地の空気がわずかに白く見えた。


 扉を引いた。

 開いた。

 入った。


 未織がいた。


 カウンターの内側で、カップを棚に戻していた。

 一つ、持ち上げた。

 棚の空いている位置に、置いた。


 その動作を、男は見た。


 置いた、というより、収めた、という動作だった。

 カップの底面が棚の木に触れる角度が、精確だった。

 ずれがなかった。

 傾きがなかった。

 カップが棚に触れた瞬間、何の修正も必要としなかった。

 最初から正しい位置に、正しい角度で、置かれた。


 男は椅子に座った。


 未織がカップを並べた。


 六つ、横一列に。

 一つずつ取り出して、カウンターの上に置いた。

 それぞれを置く動作が、同じだった。

 同じ力で。同じ速度で。同じ角度で。

 六つ目が並んだとき、六つはすべて同じ間隔で、均質に立っていた。


 男はその六つを見た。


 手が動かなかった。


 カップを選ぼうとして、指先がどれにも届かなかった。

 六つを見ていた。

 正確には、六つを並べた未織の指先を見ていた。


「どれにしはりますか」


 未織が言った。


 男は背の高い白いマグを取った。

 手に収まらなかった。

 大きかった。

 両手で包んだ。

 陶器の厚みが、手の平の全体に当たった。


 未織はマグを受け取った。

 奥へ向かった。


 しばらくして、香りが来た。


 複雑だった。

 果実の発酵に近い、湿った甘みと、乾いた木の渋みが混在していた。

 どちらが先かわからなかった。

 どちらも主役だった。

 その二つが均等に鼻腔の奥に届いた。


 未織が戻ってきた。


 マグにコーヒーを注いだ。


 注ぐ動作を、男は見ていた。


 ポットの注ぎ口から、コーヒーが細く落ちた。

 落ちる速度が、一定だった。

 最初から最後まで、同じ速度だった。

 マグの中の液面が上がるにつれて、ポットの傾きがごくわずかに調整された。

 調整されている、とわかるのは、調整が目に見えないからだった。

 結果だけが見えた。

 液面が均質に上がっていく、という結果だけが。


 注ぎ終わった。


 ポットが引かれた。

 マグの縁から、一滴もこぼれていなかった。


「今日のは複雑です」


 未織が言った。


「最初と最後で、味が変わります」


 それだけだった。


 男は両手でマグを包んだ。

 大きかった。

 熱が、両手の平に均質に伝わった。


 飲んだ。


 複雑だった。

 舌の前半に湿った甘みが広がった。

 飲み込んだ後、渋みが来た。

 その二つが交互ではなく、重なって続いた。

 最初と最後で味が変わる、と言われた通りだった。

 最初の一口の後半に、別の層が現れた。

 煙に近い、乾いた深みだった。


 男はマグを持ったまま、未織の手元を見ていた。


 未織は何かを拭いていた。

 カウンターの木の表面を、布で拭いていた。

 布が木を滑る速度が、均質だった。

 力が、均質だった。

 木の表面が、布の通った後で均質に光った。


 その光り方が、他のどの物体の光り方とも、一段ちがった。


 男はその差を、言葉で説明できなかった。

 説明しようとしなかった。

 ただ、ちがった。


 窓の外で、霜が完全に溶けていた。

 石畳の目地が、乾いた色に戻り始めていた。


「よく見てはりますね」


 未織が言った。

 布を持ったまま、男を見た。


「手を見てました」


 男が言った。


 それだけだった。

 未織は何も言わなかった。

 また布をカウンターに当てた。

 拭き続けた。


 男はマグを持ち直した。

 残りを飲んだ。 

 最後の一口に、煙の深みが最も濃く出た。


「ごちそうさまでした」

「おおきに」


 男は立ち上がった。

 扉を引いた。

 外に出た。


 霜の溶けた石畳が、朝の光を均質に返していた。

 屈折のない、真っすぐな光だった。

 男は歩いた。


     * * *


 写真立てのガラスに、屈折光が薄く当たっていた。

 像が透けていた。

 女の輪郭が、鮮明だった。

 カウンターの木の表面が、均質に光っていた。

 白いマグが、カウンターの上に置かれたままだった。

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