05.事故当日のこと
午前8時半。
マンションの五階に並ぶ扉のうちの一つが、勢いよく開かれた。ほとんど同時に、中から一人の女が飛び出てくる。
澄野玲香だ。
髪はボサボサ、呼吸は乱れ、右手で鞄を鷲掴みにしている。
玲香は小走りでエレベーターホールへとたどり着くと、下矢印のボタンを連打した。階数表示の「3」の表示が消え、今度は「2」が点灯する。
玲香はイライラした様子で腕時計を覗き込む。
数秒の躊躇の後、玲香は階段へと向かった。手すりを掴み、ほとんど飛び降りるように下っていく。
一階まで降りると、玲香は一呼吸を置く間もなく、勢いよく走り出した。
駅までの道のりを、玲香はわき目もふらずに走った。途中、すれ違う人々とぶつかりそうになるが、軽く頭を下げるのみで、またすぐに走り出す。
駅に着いたころには、玲香は大汗を流していた。荒い息を何とか抑え、玲香は混雑する電車に乗り込んだ。
◇
玲香は、会社の自分の席に疲れ切った表情で腰かけた。
時刻は9時29分。始業の一分前、ギリギリもギリギリだ。
玲香が荷物を置いてようやく一息ついたところで、どこからか怒声が聞こえてきた。
「ここも、ここも、ここも間違ってる! こんな資料を寄越してくるなんて、一体どういうつもりー!?」
玲香は声のする方に目を向けた。視線の先にいるのは、玲香の直属の上司、権田課長だ。資料を指差しながら、ガミガミと文句を言っている。
説教を受けているのは、玲香の同僚だった。玲香は一瞬だけ気の毒そうな目線を向けたが、何も言わずにすぐに視線を逸らす。
玲香は申し訳なさそうに首をすくめながら、課長席の横をそっと通り過ぎた。
今日の玲香には、客先訪問の予定があった。事務室へと向かい、社用車のキーを受け取る。
事務員からキーを受け取りながら、玲香はつらそうに頭に手を当てた。事務員が心配そうな表情で玲香に声をかける。
「澄野さん、大丈夫?」
「何でもないです、大丈夫です」
玲香は苦笑いしながら、手を振って誤魔化した。
◇
玲香はそのままの足で駐車場までやってきた。
あらかじめ用意していたエナジードリンクの缶と、眠気覚まし用のガムの入ったコンビニ袋を車の助手席に置く。
玲香は運転席に乗り込むと、両手で頬をバチン、と叩いた。
「よしっ」
玲香は自分に言い聞かせるようにそう言うと、車を発進させた。
最初のうちは順調だった。何事もなく、車の流れに沿ってスムーズに進む。
道中、赤信号へと変わったタイミングで、大きなあくびが出た。玲香は慌てたそぶりでエナジードリンクを一口、ゴクリと飲み込む。
問題が発生したのは、目的地まであと数キロというタイミングだった。
車の列がまったく進まなくなった。玲香は窓から前を覗き込んだが、車の列はどこまでも続いていて、先頭が見えない。
玲香は苛立ち、トントンと指でハンドルを叩く。ノロノロと進むスピードは、もはや歩いた方が速いレベルだ。
玲香は、次の交差点を無理やり曲がった。
目的地を考えればやや迂回する形になるが、背に腹は変えられない。相手方との約束の時間は迫っている。
すると、目の前に横断歩道を渡っている子どもが目に入った。小学生低学年くらいの子どもだ。
慌ててブレーキを踏む。
その子どもはブレーキ音を聞いて焦った様子で、何かにつまずいて転んだ。
その様子をうつろな目で眺めていた玲香の動きが止まり、頭が徐々に落ちていく。
◇
ハッと玲香は顔を上げた。子どもは、もうとっくに横断歩道を渡り切って、姿を消していた。
玲香はエナジードリンクをまた一口飲んで、アクセルを踏んだ。
車は勢いよく発進する。先ほどまでの遅れを取り戻すべく、玲香はスピードを上げた。
ちょうど目の前には、路線バスが走っていた。玲香はそのバスの後ろにつき、車間距離を保ったまま走り続ける。
バスが止まれば止まり、また動き出したらそれについていく。その繰り返しだ。
正面の景色は、先ほどからほとんど変わらない。
周囲の街並みが、一定のリズムで後方へと流れていく。
隣の車線を走る車がゆっくりと、玲香の運転する車を追い抜いていく。
…………
◇
ドンッ。
車全体が衝撃で揺れた。
玲香は目を開けた。目の前には、先ほどまで前を走っていた路線バス。
玲香は一瞬で覚醒し、たった今何が起こったのかを理解した。玲香の顔から、血の気が引いていく。
玲香は震える手でドアを開いて外に出た。足元がふらついている。
そこはバス停だった。
順番待ち列の客の、いくつもの視線が玲香に集中する。玲香は弱々しい手つきで車のドアを閉め、ふらつく身体を支えるように車に手をついた。
ドアが閉められた車内からは、外の人々の声は聞き取れない。
誰もいなくなった車内で、追突の衝撃で転がり落ちたエナジードリンクの空き缶が、ゆらゆらと寂しげに揺れていた。




