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03.お人よしの向かう先

 直正が帰宅した後。伊倉は事務所の床に座ったまま、腕組みをして目を閉じていた。


 一人だけの室内で、壁掛けのアナログ時計が時を刻む音だけが響く。


 しばらくして、伊倉は突然立ち上がった。


 着替えもせず、荷物も持たない。そばにあった麦わら帽子を手に取って頭にかぶると、そのまま事務所を出る。



 ◇



 外は、雲一つない晴天だった。


 伊倉はご機嫌な足取りで、住宅街の中を歩き出す。すれ違う人々はその変わった服装を見てギョッとするが、伊倉に意に介す様子はない。


 しばらく歩いていると、自転車に乗った小学校高学年くらいの男の子が、前方からやってきた。すれ違いざま、自転車のかごから何かが落ちる。


 伊倉が近寄って拾い上げると、それは青色の筆箱だった。


 後ろに視線を向けると、男の子はすでに曲がり角の先へと姿を消していた。


 伊倉が男の子を追いかけようと、クラウチングスタートの姿勢を取ったところで、男の子が自転車を飛ばして戻ってきた。どうやら落とし物に気がついたようだ。


 伊倉は男の子に歩み寄り、手に持っていた筆箱を差し出した。


「探し物はこれかい」


 男の子は筆箱を見ると、奪うように受け取った。そして、そのまま向きを変えて全速力で行ってしまった。


 伊倉はそんな様子を見て、満足そうに顔をほころばせる。


 再び歩き出そうとすると、今度は後ろから声がかかった。


「あら、伊倉ちゃんじゃないのー! 最近姿を見かけないと思ってたのよー!」


 伊倉はその声に気づいて振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべた。


「オバチャン、久しぶり」

「ほんとよ、ほんと! って、私がお盆でしばらく家を空けてたせいよね? オホホホホ……」

「そうだったんですね」

「そうなのよ! それで、この前ね……」


 オバチャンの、止まらないマシンガントークを伊倉はニコニコしながら聞いている。


 しばらく世間話に付き合わされた後、ようやく解放された。


 土産だという立派な梨を右手に一個、左手に一個。両手に持ったまま、伊倉は再び歩き出す。



 ◇



 しばらく歩き続けて、伊倉は駅前へとたどり着いた。


 信号待ちをしていると、後ろから大きな荷物を持った老紳士がやってきた。荷物は見るからに重そうで、ふらついている。


 伊倉は素早く駆け寄った。


「お持ちしますか?」


 老紳士は驚いたように目を見開いたが、伊倉の表情を見るとすぐに柔和な笑みを浮かべた。


「おお、ありがとうね」


 伊倉は荷物を受け取ろうとしたが、両手が梨でふさがっていることに気がついた。とっさに辺りを見回し、近くにいたサラリーマンを見つける。


 伊倉は躊躇なく、梨をサラリーマンに手渡した。


「これ、どうぞ」

「え、あ、ありがとうございます……?」


 サラリーマンは戸惑いながら梨を受け取ると、首を傾げながら駅の改札へと歩いて行った。


 伊倉は、改めて老紳士の荷物を受け取り、肩に担いだ。


「せっかくなので、家まで送ります」

「悪いねぇ。ありがとう」


 老紳士に家は、事務所のすぐ近くだった。


 老紳士と荷物を家まで送り届け、再び駅へと引き返したころには、事務所を出てからすでに30分が経過していた。


 普通に歩けば5分程度の道のりだが、伊倉はとくに気にする様子もない。平然と改札をくぐって電車に乗り込んだ。



 ◇



 電車に揺られること20分、伊倉は目的の駅へと到着した。駅構内は混雑しており、さすがの伊倉も人助けをする間もない。人の波に流されていく。


 そして、駅からすぐ近くの目的の場所――警察署へとたどりついた。


 警察署内は、ピリピリとした空気感が漂っていた。受付待ちの市民の姿もちらほら見えるが、誰もが大人しく順番を待っている。


 しかし、伊倉はとくに緊張する様子もなく、スタスタと受付の順番待ち列の横を通り過ぎた。そのまま、署員専用スペースにつながる通路へと向かう。


 そのまま通り抜けようとすると、すかさず警備員に止められた。


「ちょっと! ここは一般人立ち入り禁止です」


 警備員は強い口調で伊倉の行く手を遮った。当然の行動と思われたが、伊倉は不機嫌そうに顔をしかめた。


「高杉(たかすぎ)さんに許可は取っている」


 伊倉のぶっきらぼうな返答に、警備員は警戒心を隠そうともしない。


「高杉署長……ですか?」


 警備員は伊倉の姿を横目に捉えながら、無線で何やら話をしている。


 しばらく待たされた後、先ほどの警備員が顔を青くしてすっ飛んできた。


「も、申し訳ございません! 署長のご恩人とは知らず、失礼なことを」

「分かってくれたのなら構わない」


 恐縮しきりの警備員に、伊倉はのんびりとした口調で返した。警備員は身体をカチコチに固まらせ、ぎこちない動作で敬礼している。


「どうぞ、お通りください!」


 伊倉はゆったりとした動きで右手を上げた。


「では、失礼するよ」

「はっ! お疲れ様であります!」


 伊倉は警備員の横を通り過ぎ、署員専用スペースへと向かった。


 署員専用スペースには、当然ながら警察官しかいない。どこに目を向けても、張り詰めた緊張感が漂っていた。


 時折、慌ただしくすれ違っていく警察官たちは、伊倉のことなど気にも留めない。


 そんな中、伊倉は慣れた足取りで通路を進んでいく。階段で三階まで上がって角を曲がり、一番奥の突き当りまで向かう。


 目的の部屋は、フロアの隅にひっそりとたたずんでいた。周囲に人の気配はない。伊倉はその部屋の扉の前に立つと、素早く暗証番号を入力してロックを解除した。


 扉を開けると、中には二畳ほどの狭いスペースと、もう一枚の扉があった。二重扉だ。


 伊倉が部屋に入って後ろ手に扉を閉めると、部屋がわずかに暗くなって、ピピピ、と小さな電子音が鳴った。


 数秒後、再び部屋が明るくなると、今度は合成音声のアナウンスが流れ出した。


『認証中……イクライッセイ、28歳』


 そのアナウンスで、このわずかな間に何らかの生体認証が行われたことが分かる。


『ゲストユーザー……入室を許可します』


 そんな言葉とともに、目の前の扉が自動で開いた。


『セキュリティのため、15秒後に自動で扉をロックします。速やかに入室してください』


 アナウンスに促されるまま、伊倉は部屋へと足を踏み入れた。すると、入ってきた扉が自動で閉まり、ガチャン、とロックがかかった音がした。


 伊倉は部屋の中を見回した。誰もいない室内は、これまでと比べて薄暗い。部屋の中にあるのは、人が一人入るくらいの大きさの、怪しげなカプセルが合計6台。


 伊倉は一番手前のカプセルに近づくと、そのすぐ横に取り付けられたパネルを操作し始めた。


 パネルに表示されている日付は、9月29日。今日の日付だ。


 伊倉が入力した日付は、9月2日――澄野玲香が追突事故を起こした日だ。


 入力を終えると、伊倉はカプセルの横のスイッチを押した。プシュー、という音とともに、カプセルがゆっくりと開く。


 伊倉は麦わら帽子を脱いでパネルの角に引っ掛けると、カプセルの中に横たわった。そして、カプセルの中のスイッチを、ためらうことなく押した。


 カプセルが閉まると同時に、ブォーン、と何やら機械の動作音が鳴り始めた。カプセルがわずかに振動し、伊倉の身体を揺らす。


『タイムトラベルモードを起動します。目的地は、20XX年9月2日です』


 そんなアナウンスとともに、伊倉の目の前のパネルに大量の文字が流れ始めた。超高速で流れていくため、内容を読み取ることはできない。伊倉はゆっくりと目を閉じた。


「さあ……過去に行こうか」


 ブォーン、という音がまた一段と大きくなった。


 伊倉の目の前が、否、カプセル全体が白い輝きを放ち始めた。目を閉じてもなお入り込んでくる強烈な光によって、部屋中が真っ白に染まった。


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