21.別れ
タロを無事に課長の元へと送り届けた伊倉は、満足げに頷いた。
「これにて、一件落着だな」
そう言いながらその場を立ち去ろうとした、その瞬間。
不意に、不思議な現象が起こった。
真っ暗な夜道が、急に明るく照らされていく。
伊倉が驚いて周囲を見回す。隣にいる時任の身体から、光の粒子が舞い散っていた。輪郭がぼやけ、うっすら身体が透けている。
伊倉は何事かと後ずさるが、すぐに自分自身からも同じように光があふれ出していることに気づいた。
「これは……?」
慌てふためく伊倉を見る時任は、眉一つ動かさない。
「過去が、変わったんだ」
「なに?」
「言葉通りの意味だ。俺たちの行動によって過去が変わり、俺たちがここにいる理由がなくなった」
時任の言葉に伊倉はハッとした。周囲の光が強さを増し、二人の姿がまた少し薄くなる。
「ということは、つまり……」
「澄野玲香は救われた、ということだ」
伊倉はパッと顔を輝かせた。嬉しそうに、時任に向かってピースをする。
「やったな、時任!」
「やれやれ。寄り道ばかりで、一時はどうなることかと思った」
「確かに。それに、何が原因で澄野玲香が救われたのか、さっぱり分からない」
「そう思うのなら、最初から真面目に捜査してくれればよかったものを」
「あはは」
「まったく……」
時任はやれやれとため息をついた。しかし、すぐに真剣な表情に戻る。
「澄野玲香は、救われるべき人物だった」
「どういう意味だ?」
時任がゆっくりと語り出す。
「稀にあるんだ。過去改変によって、まったく関係のない人の未来が変わってしまうことが」
「ほう?」
「今日だって、ちょっとした過去改変が思いもよらない方向に転がる様子を散々見てきたはずだ」
「つまり、俺たちの行動が奇跡的に噛み合って、澄野玲香がたまたま助かったと?」
「正確に言うと、そうじゃない。正しい世界線においては――交通事故なんて起きるはずじゃなかったんだ」
時任の話に、伊倉は真面目な表情で聞き入っている。いつものように茶々を入れる気配はない。
夜の住宅街、二人の会話の邪魔をするものは誰もいない。時任は再び話し始めた。
「事の起こりは一か月前だ。詳細は伏せるが、まったく別の現場でとある事件が起こった。その捜査で過去改変が行われ、無事犯人逮捕にはこぎつけたわけだが……」
「その影響が、巡り巡って澄野玲香に及んだ?」
「うむ」
時任は頷いた。そして、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「実際のところ、過去改変が周囲にどういう影響を与えるのか、時空警察もすべてを把握しているわけじゃない。過去へのわずかな干渉によって、人々の行動がほんの少しだけ変わる。それが積み重なって、いつのまにか大きな変化となる」
「風が吹けば桶屋が何とか、というやつだな」
「そこまで言ったなら最後まで言ってくれ」
時任が突っ込みを入れる。しかし、今までとは違ってその口調は柔らかい。
「……とにかく、澄野玲香の件は、防ぐべき事故ということで時空警察の間でリストアップされていた」
「捜査を始める前に、かかってきた電話か」
「そうだ」
時任は伊倉に怪訝な目を向ける。
「てっきりあの時、電話の内容をしつこく問い詰めてくるものだと思っていた。気になったことには、何にでも首を突っ込みたがるだろう」
時任の指摘に、伊倉は顎に手を当てて考え込んだ。しきりに首をひねっている。
「確かに、そうかもしれない。けど」
「なんだ」
「俺は、澄野玲香を助けたかった」
「ああ」
「時任には澄野玲香を助ける任務が与えられてた」
「ああ」
「で、助かった」
「その通りだ」
「それで、十分じゃないか?」
伊倉はあっけらかんと言い放ち、屈託のない笑顔を見せた。
それを見た時任は顔を引きつらせた。しかし、ついにこらえきれず、ほんのわずかに口角を上げた。
「ああ、よかった」
時任の返事に伊倉は黙って笑顔を返した。そして、右の拳を前に突き出す。今度は、時任も右手を伸ばした。
コツンと一つ、グータッチを交わす。
伊倉は、一層薄くなった自分の身体をしげしげと眺めた。
「それで、これから俺たちはどうなるんだろうか?」
「それは」
時任の身体もさらに薄くなり、足元などはほとんど消えかけている。しかし、その口調は冷静だ。
「二人とも、じきに消滅だろうな」
「そんな」
「そう言うな。正確には、この世界線――澄野玲香が事故を起こした世界線自体が消えるんだ。そして本来の、澄野玲香が事故を起こさなかった世界線で、俺たちは生き続ける」
「そうか。ならよかった」
「今日のこの捜査自体もなかったことになるから、記憶も消える。お互いのことも覚えてはないだろう」
「あら、それは残念だ」
伊倉はあっさりと一言で済ませた。時任はまたしても小さく笑う。
二人はもう上半身のみで、その姿さえほとんど消えかかっている。しかし、二人からは一切の悲壮感は感じられない。
伊倉はいつも通りの飄々とした様子で、ひょいと右手を上げた。
「お別れだな」
時任もとくに感傷に浸る様子もなく、平坦な口調で応えた。
「ああ……またな」
その言葉を最後に、二人を取り囲む光が強さを増し、二人の姿がついに見えなくなった。光の粒子は空へと舞い上がり、キラキラと夜空を彩る。
◇
ガタン、と音がして、課長の家の二階のベランダの窓が開いた。そこから、タロが飛び出てくる。タロは夜空を見上げている。少し遅れて、家の中から課長がやってきた。
「あ、コラ! 今日はお外に出て疲れたでしょ! 早く寝ないと」
そう言いながら、課長はタロを抱え上げて家の中に戻ろうとする。タロは課長の腕の中で、何もないはずの夜空を見上げている。
「にゃあん」
雲一つない夜空には、満点の星が輝いている。タロの視線の先で名もなき二つの星が、キラリと光った。




