20.帰るべき場所
タロが昼寝から目を覚ましたのは、午後5時過ぎだった。空は夕焼けで赤く染まりつつある。
駅前の道には帰宅する会社員や学生の姿が増えてきていたが、二人を引き連れて歩くタロは、尻尾をピンと立ててご機嫌だ。
伊倉は楽しそうに笑った。
「タロも、これだけのデカいのが後ろに控えてくれていたら、気も大きくなるだろう」
「コイツ、いくらなんでもこの状況に慣れ過ぎている。脱走の常習犯なんじゃないのか」
「否定できんな」
伊倉はククッと笑い声を漏らす。不服そうに目を逸らす時任とは対照的だ。
◇
少し歩くと目の前に駅が見えてきた。タロは混雑している改札の方向に目線だけ送ると、直角に曲がった。向かう先にはバス乗り場がある。
バス乗り場にはちょうどバスが止まっていた。すでに客は全員乗り込んだようで、順番待ちの列はない。
タロは迷いなく入り口へと向かい、ピョンとひとっとび。バスに乗り込んでしまった。
そのままバスの奥に行くと思いきや、タロはその場で立ち止まった。バスの外を振り返ると、入り口の階段の一番下の段に座る。
奥に行ってくれれば乗客の誰かが見つけて外に出してくれただろうに、入り口の一番手前では誰もタロに気づかない。
時任が慌てたように声をかけた。
「おい、どこに行くつもりだ」
そう言ってバスに駆け寄ろうとするが、伊倉が手で制した。
伊倉はタロの前にしゃがみこむと、静かに喋り出す。
「やあ、お出かけかい」
「にゃあん」
伊倉の問いかけに、タロは応えるように一鳴きした。
「いいね。たまには遠出するのも楽しそうだ」
「会話してるフリをするな」
「フリじゃない」
伊倉はタロと目線を合わせ、タロも伊倉から目を離さない。本当に、互いのことが見えているとしか思えない様子だった。
『まもなく、発車いたします』
車掌のアナウンスが聞こえてくる。時任が焦ったように伊倉の肩を押した。伊倉は分かっている、というように何度も頷く。
「このままバスに乗って遊びに行くのも悪くない。でも、そうすると……家にいる、パパには会えなくなるんじゃないのかい?」
「にゃあん」
時任が焦れ、前かがみになる。
もうバスの出発予定時刻は過ぎている。いつドアが閉まってもおかしくない。
「今日の冒険はこのくらいにして、そろそろお家に帰らないかい?」
そんな伊倉の問いかけにも、タロは動かない。
時任が手を伸ばしかけた瞬間、プシューという音を立ててバスのドアが動き出す。
閉まり切ったドアの、その手前には――タロの姿があった。
◇
二人と一匹は仲良く並んでバスを見送った。バスが遠くに見えなくなった頃、伊倉がさて、と立ち上がった。
「帰ろうか」
「にゃあん」
バス停に背を向けた伊倉の声に反応したかのように、タロは伊倉の後を追いかけ、そして横に並んだ。時任もそれに続く。
「まるで本当に話してるみたいだな」
「だから、話してるんだって」
「嘘をつくな」
そんな言い合いをしながら、タロを挟んで伊倉と時任、二人と一匹が並んで歩く。
日も落ちてきて、空は徐々に暗くなってくる。伊倉は駅の時計を見ると、わざとらしくのけぞった。
「もうこんな時間だ。早く帰ろう」
「誰のせいだと思ってる」
「誰のせいでもない。しいて言うなら、全員のせいか?」
「俺を巻き込むな」
「にゃあん」
鳴き声とともに、タロが先陣を切るように走り出した。
「あっ、おい」
伊倉と時任も慌てて追いすがる。目指すゴールは、権田課長の家だ。
◇
課長の家の前へと戻ってきた頃には、もうすっかり陽が落ちていた。人通りの少ない住宅街は真っ暗だ。
「にゃあん」
タロは素晴らしい跳躍で家の門に飛び乗ると、そのまま中へと入っていく。
家の前の庭では、課長が地面に這いつくばっていた。
「どこだー! タロちゃーん! どこだー!」
そう叫びながら、課長は庭中の石をひっくり返している。
時任は呆れたように手で目を覆った。
「そんなところにいるわけがないだろう。ダンゴムシじゃあるまいし」
しかし、課長はそんな無駄にしか見えない行為を今もなお続けていた。
「タロちゃーん! うおーーーん!」
絶望の声を上げる課長。その姿を、冒険から帰還したタロの目が捉えた。
「にゃあん」
課長はハッと顔を上げた。しかし、すぐに渇いた笑い声を上げる。
「ははっ。幻聴か。僕はもうダメなのかもしれない……」
「にゃあん」
タロは面倒くさそうに課長のひざ元に潜り込み、その顔を見上げた。ようやく気づいた課長は目を見開き、尻もちをついた。
「ひえっ」
課長は情けない声を上げた。しかし、すぐに我に返って体を起こすと、目にも止まらぬ速さでタロを抱きしめた。
「タローーーーーーーーーー!!!!!」
「にゃ……」
ギュー、と音がしそうな勢いで、課長はタロを抱きしめる。タロは心底嫌そうな声を漏らし、身体をよじった。しかし、課長の二度と離すまいという執念のこもった腕からは、なかなか逃れることができない。
「タロちゃん! もう、もう、どこにも行くんじゃないぞーーー!」
「ミ゛ャアアア!」
さすがのタロも怒りが頂点に達したが、渾身のネコパンチを課長の頭に食らわした。
課長が一瞬ひるんだ隙に、腕から抜け出して地面に着地した。課長が慌てて手を伸ばすが、タロは身軽に飛びのく。
「にゃあん」
「待て、待ってってばー!」
必死に追いかける課長を振り切りながら、タロは伊倉と時任の前に着地した。追いかけっこの最中だというのに、タロは律儀に二人の方に身体を向け、順番に視線を向けた。
「にゃあん」
それだけ言い残すとタロはくるりと向きを変え、玄関のネコ用ドアに駆け込んでいった。
「タロちゃーん! うおーーー!」
課長は叫び声をまき散らしながら、タロの後を追って家の中に消えていく。ドタドタという足音が家の外からでもハッキリと聞こえてくる。
伊倉と時任は、そんな家の様子を門の外から眺めていた。
伊倉は時任を見てほほ笑んだ。
「今回も、無事うまくいった」
「うむ。これで、あの課長のイライラの種は消えたはずだ」
時任も素直に同意する。珍しく伊倉を咎めるような言葉は続かない。
伊倉は嬉しそうに拳を突き出してグータッチを求めるが、やはり時任は応じない。伊倉の拳はむなしく空を切った。




