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22/22

22.エピローグ

 ドタドタドタドタ。


 部屋中に大きな音が鳴り響き、玲香は夢の中から引きずり出された。重い瞼をわずかに上げる。


 玲香は枕元のスマートフォンを手に取った。まだ6時を少し回ったところだ。外は明るいが、さすがに早すぎる。しかし、またしても何かが眠りを妨げようとする。


 ドタドタドタドタ。


 音は天井から聞こえてくる。


 上に住んでいるのは新婚の若い夫婦だったはずだ。玲香が前に顔を合わせた時には、まだ生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。それが、いつの間にか走り回るまでに大きくなったらしい。


 玲香は諦めて布団から出た。ゆっくりと仕事の支度をしたが、早起きのお陰でまだ一時間以上も余裕がある。


 玲香は冷蔵庫を開けた。しかし、いつも朝食を食べる習慣がないせいで、ロクなものが入っていない。


 玲香はため息をつきながら家を出た。



 ◇



 マンションの廊下に出ると、隣の部屋に住んでいる老婦人と鉢合わせた。家の前を、箒で掃き掃除をしている。


「あら、澄野さん。おはよう」

「おはようございます」


 老婦人に話しかけられ、玲香は戸惑いつつも挨拶を返した。老婦人は掃除の手を止め、笑顔で話しかけてきた。


「今日は早いのね」

「え、ええ。たまには早起きでもしようかな、と」

「それはいいわね。上の階の子も、朝から元気いっぱいね」


 玲香は苦笑した。その子どもに丁度たたき起こされたところだったが、そうですね、と頷いてみせた。


「そういえば、昨日だったかしら。危ない運転のトラックに轢かれかけたの。澄野さんも車には気をつけなさいね」

「はい、気をつけます」

「これ、あげるから。頑張って!」


 差し出されたのは、喫茶店の割引券だった。店名は『片岡珈琲(かたおかコーヒー)』とある。玲香はお礼をして、老婦人と別れた。



 ◇



 玲香はゆっくりと最寄り駅までの道のりを歩いた。急ぐ理由がないので、周囲の景色を眺める余裕すらある。


 しばらく歩いていると、目の前に喫茶店が現れた。看板には『片岡珈琲』とある。


 玲香は手元の割引券と見比べる。この店で間違いない。


 玲香は喫茶店の扉をくぐった。コーヒーの良い匂いが鼻腔をくすぐる。


「いらっしゃい」


 見るからに真面目そうな店主が、玲香を迎え入れた。玲香は割引券を差し出し、モーニングを注文する。


「これからお仕事ですか?」

「はい。いつもより早起きしたので、仕事の前に少し寄ってみようかなと」

「それは嬉しいことですね。目覚めの一杯を、どうぞ」


 店主はそう言ってホットコーヒーと、トーストを玲香の目の前に置いた。まずはコーヒーを一口すする。


「……美味しい」

「そう言っていただけて何よりです」


 玲香は、続いてトーストを一口かじった。そちらも想像以上の美味だったようで、玲香は顔をほころばせる。


 ジリリ、と不意にベルが鳴った。喫茶店の電話だ。


 店主が電話を取り、短く会話をして切る。困ったような表情だ。


「どうかしましたか?」

「あ、いえ……少しトラブルがありまして、コーヒー豆の納品が遅れるとのことで。何でも、近くで事故渋滞が起こっているそうです」

「大変ですね」


 トーストを食べ終え、コーヒーを飲み干す。


 そのとき、カップの中からジャラリと音がして、玲香は中を覗き込んだ。カップの中には、なんとコーヒー豆が数粒入っていた。


 玲香は宙に視線を泳がせたが、すぐにカップを置いた。コーヒー豆のことは見なかったことにしたようだ。


「ごちそうさまです」

「ありがとうございました。また、いらしてください」


 店主は丁寧に頭を下げた。玲香もつられて小さく頭を下げた。玲香はすっきりした表情で喫茶店を後にする。



 ◇



 喫茶店を出ると、ちょうど会社に向かう時間だった。しかし、急ぐほどでもない。玲香はゆっくり歩いて会社へと向かった。


 会社に着いて自分の席へと向かう途中、課長が歩いてくるのが見えた。見るからに上機嫌だ。


「お、澄野さん。おはよう」

「おはようございます」


 小さく会釈すると、課長は心配そうに玲香の顔を覗き込んだ。


「おや、随分疲れているようだね。大丈夫かい?」

「え? ええ、大丈夫ですよ」

「いやいや、今日は外回りの予定だったでしょ? そんな疲れ顔の人間を、送り出すわけにはいかないよ。午前中は休んだほうがいいんじゃない?」


 玲香はギクリとして自分の顔に手を当てた。


「あ、ありがとうございます。そんなに、疲れているように見えますか?」

「まあ、少しね。じゃあ、手続きはこっちでしておくから、ゆっくり休んで来なさい」


 課長の言葉は優しかった。玲香は素直に頭を下げて、休憩室へと向かった。



 ◇



 二時間ほど仮眠を取り、時刻は11時半。


 午前中に向かう予定だった客先には、同僚が代理で向かってくれていた。玲香は、もともと予定していた別の客先に向かうべく、出発の準備を進めていく。


 そういえば、と玲香はスマートフォンを取り出した。


 喫茶店で聞いた通り、渋滞が発生していた。ちょうど、これから向かう先の近くだ。玲香は迂回ルートを検索してから、社用車へと乗り込んだ。



◇



 迂回ルートを用意していた甲斐あって、道のりは順調だった。


 細い道をくねくねと曲がり、間もなく大通りへと出ようかという、その時。視界の隅で、何かが動いた。


 キーッ、というブレーキ音とともに車が急停車する。


 玲香が道の端を凝視すると、そこにいたのは――小さなトラ柄のネコだった。


 玲香はドキドキする心臓に手を当てながら、ホッと息をついた。


「にゃあん」


 道の端で、ネコが小さく鳴いた。ネコは、なぜかあさっての方向をジッと見つめている。


 玲香はその視線を追うが、その先には何もない空き地があるばかりだ。小さな水たまりはあるが、ネコの興味を惹くような代物ではない。


 その時、太陽の光が水たまりに反射し、まばゆいばかりの光を放った。玲香が思わず目を細めると、水たまりの脇に二人の人影が見える。


 一人は、鮮やかな紫色に、白い水玉の入ったスーツ。服のセンスが壊滅的だ。


 もう一人は、濃紺のスーツを着た、見るからに堅物そうな大男だ。


 玲香が驚いて瞬きする。もう一度その場所を見ると――そこにはもう、誰の姿もなかった。


「……?」


 プップー。


 クラクションが鳴り、玲香は我に返った。


 サイドミラーを見ると、三台ほどの車が行列を作っている。玲香は急いで、しかし慎重に車を発進させた。



 ◇



 その後はトラブルもなく、無事大通りへと出ることができた。車の流れに乗り、玲香は順調に車を走らせていく。


 もう間もなく到着という時、目の前で信号が黄色へと変わった。前を走っていたバスは、渡り切ってしまおうとスピードを上げる。


 玲香は、それにはつられずにブレーキを踏んだ。車は停止し、目の前で信号が赤に変わる。


 玲香はペットボトルの蓋を開け、お茶を口に含む。ぼんやりとしながら、ゆっくりと信号が変わるのを待つ。ふと、玲香の口から言葉が漏れた。


「平和だなあ」


 信号が青に変わる。玲香は車を発進させた。


 先ほどのバスが、バス停で客を乗せている。その様子を横目で見ながら、玲香はバスの横をゆっくりと通り過ぎた。


 バスの順番待ち列の人々は、通り過ぎる車のことなど気にも留めない。


 何も変わらない、いつも通りの日常だった。


これにて完結です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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