17.課長の愛猫・タロ
閉店寸前の喫茶店を救った二人は、再び玲香の職場へと向かって歩を進めていた。
伊倉は歩きながらも何度か振り返って、いまだに喫茶店のことを気にかけていた。
「あんな解決の仕方があるのか」
「過去改変なんて、案外そういうものだ」
時任は冷静な口調で言う。
「過去に干渉したときに、何がどう影響するかなんて時空警察でも予測できない。やってみて、結果を確認する。その繰り返しだ」
「そうだとして、あのコーヒーだけは飲みたいとは思わないな」
「……それは同感だ」
口をへの字にゆがめて同意する時任を見て、伊倉は笑った。
「よし、早く行こう。のんびりしていては日が暮れてしまう」
「ちょっと待て」
時任は唐突に立ち止まり、伊倉を呼び止めた。そして、スマートフォンを取り出す。
「ここから澄野玲香の職場までは少し距離がある。座標移動を使って移動しよう」
時任がそう言いながら画面をタップすると、周囲の景色が一瞬にして切り替わった。
◇
二人は、いつの間にか見慣れぬオフィスに立っていた。伊倉はキョロキョロと辺りを見回す。
「ここは?」
「澄野玲香の職場だ。粗めに座標指定をしたから、澄野玲香とは別部署のフロアに来てしまった。目的の階はこっちだ」
「そんなことより、今の機能は……」
伊倉は怖い顔でスマートフォンを覗き込んだ。時任は慌てた様子で弁明する。
「座標移動の説明をしていなかったことは謝る。本当はナビだけじゃなく、好きな場所に一瞬で移動することもできるんだ」
「へぇ」
「最初から使えばよかったと言いたいんだろう? だが、お前とは捜査方針のすり合わせをしたかったし、澄野玲香の周辺を調査する意味合いもあった。嫌がらせで無駄に歩かせようとしたわけじゃない」
「そんなに面白そうな機能があるなら、早く言ってくれ」
「そっちか」
「当然」
新機能にウキウキな伊倉を連れて、時任は階段で三階まで上がった。二人がフロアへと足を踏み入れた瞬間、どこからか怒鳴り声が聞こえてくる。
「ちょっとー!? この書類のココ、間違ってるんじゃないのー!?」
伊倉も時任も、フロア内の人々も、一斉に声の主を見た。一番奥の席に座った中年の男が、資料を片手に社員を叱責している。
「あれは?」
伊倉の問いに、時任は手帳をめくりながら答えた。
「澄野玲香の所属する部署の課長だ。……権田、というらしい」
課長はチッと舌打ちをすると、資料を机に叩きつけた。
「一時間以内に修正して。遅れたら……分かってるね?」
そう念押しして、ようやく説教が終わった。叱責された社員は、そそくさと自席へと戻っていく。課長はイライラを隠そうともせずに大きなため息をついた。
伊倉はその様子を見て、不思議そうに首を傾げる。
「あの課長はどうしてあんなにイライラしているのだろう? 前に澄野玲香を見にきた時も、怒鳴り散らかしてた気がするが」
「さあな。怒りやすい性格なんだろう」
時任は軽くあしらおうとするが、周囲からはひそひそ声が漏れ聞こえてきた。
「課長、今日はどうしたんだろう?」
「いつもは、あんなに怒鳴り散らすような人じゃないのに」
その声を聞いて、伊倉は得意げにニヤついた。
「やっぱり、あの課長のあの態度の裏には何か事件があったんだ」
「だったら何だっていうんだ」
「過去に戻って、何があったのか見に行こう」
時任は面倒くさそうに目を背けた。
「またそれか」
「と言いつつ、付き合ってくれるんだろう?」
時任は気乗りしない様子だったが、ハァと再び大きなため息をつくと、スマートフォンを取り出した。
「もう、気が済むまでやればいい。最悪、今日一日は無駄にしても、明日は俺一人で捜査するだけだからな」
「そんなこと言うな。明日も来るから一緒に調べよう」
「勘弁してくれ……」
時任はスマートフォンで前日の18時を設定する。周囲の景色が高速で巻き戻っていく。
◇
18時のオフィスは人もまばらで、窓の外は暗い。課長も自席で帰り支度を始めている。
伊倉は時任に尋ねた。
「どうしてこの時間なんだ?」
「さっき、周りの社員が『珍しい』と言っていた。ということは、あの課長は前日から機嫌が悪かったわけじゃない。つまり、前日に帰宅してから出社するまでの間に、何かが起こったということになる」
「ほう、名推理」
そんな会話をしていると、課長が鞄を手に席を立った。伊倉と時任は視線を交わし合い、二人で課長の後を追う。
課長は会社を出て、最寄り駅へと真っすぐ歩いていく。
駅に向かう課長は鼻歌交じりで、足取りは軽い。工事があって迂回を強いられても、後ろから走ってきた男子高校生たちと肩がぶつかっても、怒り出す気配はない。
そんな時、課長は足を止めて懐からスマートフォンを取り出した。そのまま耳に当てる。どうやら、電話がかかってきたようだ。
「もしもし……」
課長は電話越しに何やら話している。二人の位置からは、会話の内容は聞き取れない。
いくつか言葉を交わした後、急に課長の表情が変わった。ポカンと口を開け、血の気が引いていく。
「す、すぐ行く!」
焦った声でそう言うと、課長は鞄を抱えて走り出した。電車に飛び乗り、駅に着くとドアが開くのももどかしく走り出す。
二人が何とか追いついたときには、課長はおそらく課長の自宅の前で、妻と思われる女を問い詰めていた。
「一体、何があったんだ!? 僕の、僕のタロちゃんが、どうして!?」
「それが、宅急便が来てドアを開けた隙に、スルッと抜け出してどこかへ……近くを探し回ったんだけど、全然見つからなくて」
「そ、そんな……」
課長はガックリと肩を落とした。しかしすぐに顔を上げると、大声で叫ぶ。
「おーい! タロちゃん! タロちゃん! どこだ、どこにいるんだーーー!」
鞄を投げ捨て、伊倉の横をかすめて駆け出していく。その勢いはすさまじく、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
伊倉は背伸びして、課長が駆けていった方向を眺める。
「タロというのは、犬か猫だろうか」
「おそらく」
伊倉は納得したように頷くと、顎に手を当てた。
「ペットのことになると人が変わる、という人は多い。仕事ぶりに影響が出てもおかしくない」
「そうだとして、それを仕事に持ち込むな」
「彼にとってそれだけ大切な存在なんだろう。許してやってくれ」
時任は納得しかねるといった表情だったが、黙ってスマートフォンを操作し時間遡行の準備を進める。
「とりあえず、三時間前くらいに戻ればいいか?」
「自分から率先して過去に戻ろうとするなんて、最初の頃とは別人のようだ」
「うるさい。ただの時間短縮だ」
時任は鬱陶しそうに首を振り、前髪をかきあげた。そして、時間遡行の開始ボタンを押す。
◇
二人は16時前の、課長の自宅前へとやってきた。
「どれどれ」
伊倉が課長の家を覗き込む。家の中には課長の妻がいた。しかし、とくに慌てた様子はなくソファでくつろいでいる。
「事件はまだ起こっていないようだ」
時任が時間を早送りで進めていく。事が起こったのは、16時半を少し過ぎた頃だった。
宅急便のトラックがやってきて、チャイムが鳴らされる。
少しの間をおいて家のドアが開いた。その瞬間、小さな影が飛び出してくる。
それは、トラ柄のネコだった。一直線に走るそのネコは配達員の横をすり抜け、家の外へと飛び出した。
「あっ、待って!」
慌てたような声が聞こえてくるが、ネコは見向きもしない。すごい勢いで家の前の通りを駆けていく。
伊倉の反応は速かった。逃げ出したネコを見失うまいと、すぐさま走り出す。時任も少し遅れて後に続いた。
伊倉は脇目も振らずに走り続ける。全力疾走で、100メートル、200メートル。
現実世界ならすぐに息切れするところだが、ここは電脳世界だ。スピードを緩めずに走り続けることができる。
角を二度三度と曲がり、住宅街の狭い道を進むこと数分。
ネコはようやくスピードを緩め、駐車場に停まっている白い車の下に入り込んだ。
伊倉は車の下を覗き込む。
少し遅れて時任もやってきた。時任は伊倉の視線を追いかけ、車の下のネコを見つけた。
「あのネコが、タロか?」
「そうだろうな」
タロはというと、車の下に座り込んでのんびりとあくびをしている。時任は小さく舌打ちをした。
「まったく、今度は迷い猫探しとは。俺は便利屋じゃないんだぞ」
「いやいや」
伊倉は嬉しそうに自分を指差し、胸を張った。
「実は俺は、なんでも屋なんだ」




