16.時任直伝・美味しいコーヒーの淹れ方
蝶野を見送った後の店主は、この世の終わりと言わんばかりに沈んでいた。客が帰ったというのに「ありがとうございました」の一言も出てこない。
伊倉はそんな店主を見かねて、遠慮がちに尋ねた。
「時任、俺たちに出来ることは何かないだろうか?」
「俺にコーヒーの味を変えろとでもいうのか? そんなこと、さすがに無理だ」
「それはそうなんだが……」
「諦めろ。分かったら、さっさと捜査に戻るぞ」
時任は腕組みをし、ムスッとした表情で伊倉の言葉を待つ。
ところが、伊倉は時任が手に持っているスマートフォンを覗き込むと、勝手に画面をタップした。
画面内に表示された日時は、今からちょうど5分前。店主が蝶野のためにコーヒーを淹れていた時間だ。
時任は横目で伊倉を睨み、伊倉はそれに応えるようにウインクした。
「……ダメか?」
「解決の具体案があるなら、聞こう」
「ひとまず、時間を戻してから考えるというのは?」
「却下だ」
時任は短くそう言うと、入力された時間をリセットしようと画面に手を伸ばす。
しかしその手が画面に触れる直前、伊倉が横から手を出し、決定ボタンを押してしまった。一瞬のうちに、世界が巻き戻っていく。
時任が口を開くより早く、伊倉は素早く言った。
「一回だけでいいから、試しにやってみないか?」
「……」
時任は深くため息をつく。
「無理なものは無理だと思うのだが」
「そこは、なんかこう……うまいことやってくれ」
目の前では、ちょうど店主がコーヒー豆を選んでいるタイミングだった。時任は一番近くにあったコーヒー豆の入った瓶に手を伸ばす。
「しかしコーヒーなんて、インスタント以外飲むことはないからな」
そう言いながら、時任は瓶のふたを開けた。あっ、と伊倉が止めようとするも、間に合わない。
時任は瓶を傾け、コーヒー豆を雑に流しいれた。用意されたコーヒーカップに、直接。
「お、おい……何をやってるんだ」
「何をって、こうしてやれば、いくらか味が変わるだろう」
「そういう問題じゃない! コーヒー豆は挽いてから、ドリップとかして……まあ、俺も詳しくは知らないが……少なくとも、直接カップに入れるもんじゃない」
「そうなのか?」
「当たり前だ! 時空警察はそんなことも教わらないのか」
「時空警察は関係ない」
二人の口論に挟まれながら、店主はカップにコーヒーを注いでいく。時任が勝手に入れて、カップの周りにも転がっているコーヒー豆には、なぜか気づかない。
伊倉はガックリと肩を落とした。
「時任もこの店主も、いい加減にしてくれないか……」
「俺が? 俺はいたって真面目だ。お前に言われたから仕方なく――」
「自覚なしか」
そんな中、コーヒーは出来上がり、店主は運んできたカップを蝶野の前に置いた。蝶野は今回もカップをゆっくりと口に運ぶ。
「ま……」
ほらね、という目で伊倉が時任を見る。
店主は、相変わらず天に祈っている。
蝶野は、カッと目を見開いた。そして一呼吸おいて、叫ぶ。
「マーーーヴェラーーース!!」
「は?」
伊倉は唖然とし、店主は口をポカンと開けた。
時任だけが無反応だ。
蝶野はカップをカウンターに置くと、饒舌に語り出した。
「重厚感のあるこの味わい! コーヒーの旨味をダイレクトに感じられる! これは一体……?」
蝶野はもう一口だけコーヒーをすする。すると、合点がいったというように大きく頷いた。
「鮮やかなこの香りは、もしや……店主、カップにコーヒー豆を直接入れたね?」
「豆を……?」
「ほら、見たまえ」
蝶野は店主にカップの中を指し示した。わずかに残るコーヒーの中を、豆が泳いでいる。
店主は慌てた様子でカップに手を伸ばした。
「も、申し訳ございません! すぐに、新しいものにお取替えを――」
「待て待て。これがいいんだ」
蝶野は店主の手を振り払い、カップに残ったコーヒーを飲み干した。そして、豆を美味しそうに食べている。
「ボリボリ……これこそ、私が求めた本物のコーヒーの味わいだ……ボリボリ……店主、これがミスだと言ったね?」
「は、はい」
「だとしたら、これは君の発明だよ。君はこれを、この店の看板メニューにすべきだ」
「は、はぁ」
釈然としない表情の店主に、蝶野はニヤリと笑った。
「やれやれ、とてもいいものを味わわせてもらった。これは良い記事が書けそうだ。では、来週の『月刊バタフライ』をお楽しみに!」
それだけ言い残すと、蝶野は軽やかな足取りで店を後にした。
◇
蝶野の後姿を見送る時任は、心なしか満足げだった。
「うまくいったな」
「どこがだよ」
伊倉のツッコミにも動じることなく、時任はカウンターに置かれたコーヒーカップを見て目を細めた。
「望外の結果だ。新メニューの開発に成功して、コーヒーの味は大幅に改善された」
「本当かよ……」
伊倉はカップを覗き込み、底に残ったコーヒー豆を見て露骨に顔をしかめた。救いを求めるように店主へと目を向けるが、店主は店主で顔を蒸気させている。
「コーヒー豆入りコーヒーか……もう一度、試しに作ってみよう」
伊倉はなおも納得できない様子で首をひねり、時任はそんな伊倉をはげますように、そっと肩に手を置いた。




