15.伝説のコーヒーソムリエ
二度の過去改変を終えて、戻ってきた喫茶店の店内の様子は――今度こそ、一変していた。
大量のコーヒー豆は跡形もなく、店が広くなったように感じられる。店主はカウンターの中で、きびきびと忙しそうに動いている。
「ふう、解決したようだな」
伊倉はホッとしたように頷いた。
店主は忙しそうではあったが、その表情は明るい。これ以上、問題を抱えているようには見えない。
そんな店主を見る時任の視線は冷たい。素早く踵を返すと、早口で言った。
「ああ、そのようだ。なら、ここにはもう用はない。さっさと――」
時任の声を遮るように、店のドアが勢いよく開かれた。ドアベルがカラン、カランと音を立てる。
伊倉も時任も、そして店主も、ドアに注目する。
入ってきたのは一人の男だった。年齢は40歳くらいだろうか。グレーのスーツに、蝶ネクタイ。小柄だが、太ったお腹でウエストがはち切れそうだ。
男は、値踏みするように店内を見渡した。
「ここが噂の……しかし、こんな店のコーヒーが旨いとは、到底思えんが」
ぶつぶつと不満をこぼしている。
店主はそんな男に遠慮がちに声をかけた。
「い、いらっしゃいませ」
男は店主を見て、やはり不機嫌そうにため息をついた。
「なんだその態度は。まさか、この私を知らないわけはないだろう」
「え?」
「なんたることだ! そちらの呼びつけに応じて、わざわざ駆けつけたというのに」
「な、何の話で……? と、とにかく、こちらの席にどうぞ」
店主は戸惑いながらも、男をカウンター席に促した。男はゆっくりと席に腰かける。
そんな二人を見て、伊倉は首をかしげた。
「どうやら、話が噛み合っていないようだ」
「……うむ」
招かれてやってきたのだという男。訳が分からない様子の店主。どこかで齟齬が発生しているのは明白だ。
店主はおそるおそる、男に尋ねた。
「ご、ご注文は?」
「……この店で一番旨いコーヒーをいただこう」
「は、はいっ!」
店主は飛び上がり、急いでカウンターの奥でコーヒーの準備を始めた。動きは慌ただしく、手つきは危なっかしい。
そんな様子を横目に、男は呆れた表情で腕を組んだ。
「まったく、この蝶野銀河を知らんとは、嘆かわしい! 喫茶店を営んでいて、この私を知らぬものなどいないはずなのだがな!」
伊倉は時任をつついて、小声で問いかけた。
「知ってるか?」
「知るわけないだろう」
「だが、この男の口ぶりからして有名人らしいぞ」
「よく分からんが、一部の界隈では有名というだけじゃないか?」
「そうなのか」
「知らん。適当だ、適当」
こそこそと言い合う二人を尻目に、蝶野はぼやき続ける。
「伝説のコーヒーソムリエと呼ばれる私に、コーヒーを飲んでもらえるという機会がどれだけ貴重か。私の一言で店を繁盛させるも潰させるも、容易だというのに」
伊倉はへぇ、と顎に手を当てた。
「伝説のコーヒーソムリエとはな。どうやら、本当にすごい人だったらしい」
「そんな簡単に人を信用するな。聞いたことのない肩書の、聞いたことのない名前の男だ。どうにも疑わしい」
時任は懐疑的な目を向けている。
一方、店主は極度の緊張でガチガチになっていた。
「こ、こ、この一杯で、この店の運命が決まる……?」
「そんなこと、あるはずがない。そう気負うな」
伊倉が気楽な調子で店主に声をかけるが、その声が届くことはない。店主は震える手つきでカップにコーヒーを注いだ。お盆にコーヒーを乗せて運んでいく。
カタカタカタカタ。
店主の手の震えがお盆からコーヒーカップへと伝わり、小刻みに音を立てている。
「ど、どうぞ……」
店主はそっとコーヒーを差し出した。蝶野は仏頂面でコーヒーカップを睨んでいる。
「店主の拙い手つき、そして、何の面白味もない香り……飲まずとも、味はおおよそ想像がつく」
そう言いつつも蝶野はカップの取っ手を掴むと、ゆっくりと口に運んだ。一すすりだけ口に含み、目を閉じてじっくりと味わっている。
蝶野はゴクリとコーヒーを飲み込むと、小さく息を吐いた。そして、ゆっくりと口を開く。
「ま……」
伊倉は両手の拳をにぎりしめて、蝶野の言葉を待っている。
時任は腕組みをし、冷ややかな視線を送っている。
店主は組んだ両手を祈るように高く上げ、ぶるぶると震わせている。
そして、ついに。
蝶野はカッと目を見開き、叫んだ。
「まずーーーーーーーーーーい!!!」
蝶野の叫び声が、店内に響き渡った。
店内の空気が凍りついた。店主も伊倉も時任も何も言わない。蝶野がカップを乱暴に、ガチャリと置く音だけが響く。
「せっかくのコーヒー豆の風味がまったくもって、生かされていなーい!」
「は、はぁ……」
店主は額の汗をハンカチで拭った。蝶野は拳を振り上げ、カウンターを打ち叩いた。いまだ怒りが収まらないといった様子で、拳を小刻みに震わせている。
「味が薄い! 温度もぬるい! まるでなっていない!」
「……」
厳しい指摘に、店主は黙って俯く。伊倉も、今回ばかりは微妙な表情で時任を見た。
「どうやら、難癖をつけてるわけではなさそうだ」
「そもそもの店主の腕に問題あり、ということだろうな」
「助けてやれないこともない、か……?」
「どう助けるんだ。コーヒーの淹れ方講座なんてしている暇はないぞ」
「困った……」
さすがの伊倉も、今回ばかりは自信なさげに首をひねるばかりだ。
そうこうしている間に、蝶野は我慢ならないといった様子で勢いよく席を立った。チラリと店主をにらみつけ、吐き捨てるように言う。
「やれやれ、まったくひどい味だ。とんだ無駄足だったよ。来週の『月刊バタフライ』の記事を覚悟しておきたまえ!」
蝶野はドスドスと、わざとらしく足音を立てながら店を出て行った。




