13.ここらでひとつコーヒーブレイク
老婦人を事故から救い、上野夫妻の喧嘩を止め。
ようやく本筋の捜査に戻ってきた伊倉と時任は、二人して頭を悩ませていた。問題は、澄野玲香の部屋を調べるかどうかだ。
時任が遠慮がちに言う。
「ここの捜査は切り上げて、澄野玲香の職場を捜査しよう」
「ほう?」
「交通事故は社用車で起こった。となれば、自宅なんかを調べるよりもそちらを調べたほうが、事故を防げる可能性は高い」
もっともな意見だったが、伊倉は不満げだ。
「だったら、わざわざこのマンションにやってきた理由は?」
「物事には、順序というものがある」
「でも――」
「だったら伊倉、お前が澄野玲香の部屋を調べて、何か手がかりを見つけてきてくれ」
「職場を調べに行こう」
伊倉はあっさりと引き下がった。
そもそも、伊倉は玲香の部屋を勝手に調べることには反対派だったのだ。ここでわざわざ食い下がる理由もない。
◇
時任がナビの目的地を変更すると、職場へと向かう道に案内の矢印が表示された。
ナビに従って早足で進む時任だったが、伊倉の歩くペースがなかなか上がらない。時任は足を止めて振り返った。
「どうした?」
「さっきの指輪のとき、飛び込んだせいで腕を痛めた」
顔をしかめながら右の上腕部をさする伊倉に、時任は呆れたような視線を送った。
「ここは電脳世界だ。身体が痛むなんてことはありえない」
そう、忘れてはならないのは二人がいる場所が電脳世界であるということだ。
警察のコンピュータ上で過去の世界を体験しているのだから、現実世界の身体に影響が及ぶことなどありえない。
しかし、伊倉は口をとがらせながら不平をこぼす。
「感じ方の問題だ。誰だって、あんなふうに硬い床に飛び込んだら痛いはずだ」
「関係ない。ここは現実世界ではない」
「こうやって地面を踏みしめている感覚がある以上、俺にとってはそれがすべてだ。痛いものは痛い」
そう言うと、伊倉はちょうど目の前に現れた喫茶店を指差した。看板には『片岡珈琲』とある。
「というわけで、ここで休んでいこう」
「休みたいだけじゃないか……」
時任はため息をついたが、強く止めることはしなかった。こういう時の伊倉が頑固で譲らないということを、これまでの捜査で学んだらしい。
伊倉は嬉々として喫茶店に足を踏み入れた。もう腕が痛むのを忘れたかのようだ。
「この店は事件の日は閉店していたから、気になっていたんだ」
「適当言うな。こんな道端の冴えない喫茶店のことなんて、わざわざ覚えているわけがない」
「何となく覚えてたんだ」
時任も続いて喫茶店へと踏み込む。
◇
その喫茶店は、非常にこぢんまりとしていた。
ダークブラウンの立派なカウンターを中心に、テーブルも椅子も木製で統一感がある。壁掛けの振り子時計に、メニューは黒板に手書きだ。知る人ぞ知る、隠れ家的な雰囲気を醸し出している。
そんな中、カウンターに肘をついてうなだれている一人の男がいた。
「どうすりゃいいんだ……」
カウンターの後ろには、コーヒー豆が入ったビンがぎっしり詰まった棚があった。
さすがの品揃え、というレベルではない。端から端までビンが並び、入りきらなかったビンがカウンターの半分近くを占拠している。足元にも、大量の段ボール箱が積みあがっている。
時任はおそるおそるといった様子で伊倉を見た。はたして、伊倉がらんらんと目を輝かせている。
「この人、この喫茶店の店主だろうけど……何やら困っているようだ!」
「困りごとを見つけて、嬉しそうにするな」
「おっと、これは失礼」
伊倉は自らの頭をコツンと叩く。
「しかし、過去に何があったが興味が湧かないか?」
「別に湧かない。だが、想像はつく」
時任は冷静な口調で床の段ボール箱を示した。
「発注ミスというところだろう。これだけ小さな、そして言い方は悪いが……大して流行っていないであろうこの店で、この大量のコーヒー豆だ。到底さばききれるものではない」
「なるほど、もっともな推理だ」
伊倉は感心したように頷いた。そして店主の横へと駆け寄ると、はげますように店主の肩に手を置いた。当然、過去の世界の店主にそんな同情は届かない。
「では、どうすれば彼を救えるだろうか」
「またそれか」
時任はやれやれと首を振ったが、伊倉はいたって真剣な表情で考え込んでいる。そして、記憶をたどるようにギュッと目をつぶった。
「あれは、確か……そう、一時期話題になっただろう。SNSで拡散する方法だ。発注ミスをしてしまったから助けてくださいと発信して、うまくいけば客は集まる」
「そううまくいくだろうか」
「ダメか?」
「客を集めてどうにかなるのは、大抵の場合は食料品や消耗品だ。ここはコーヒー豆を販売しているわけではないし、客にコーヒーをがぶ飲みさせるわけにもいかない。何より、この店のキャパシティでは大量の客を処理できない」
「確かに」
伊倉は腕を組んだ。そしてウンウンとうなっていたが、やがて顔を上げて指をパチリと鳴らした。
「なら、過去に戻って誤発注自体を防いでしまうというのは?」
「また、それか」
時任は伊倉を横目でにらみつけながら、ゆっくりとした動作でスマートフォンを取り出した。手際よく操作を進めていく。伊倉は首をかしげた。
「今回はやけに素直だな」
「言い争いをするだけ、時間の無駄だと学んだからだ」
時任の返しはそっけない。そんな時任を見て、伊倉は嬉しそうに顔を蒸気させた。
「それはありがたい」
伊倉は短くそれだけ言うと、店の隅にある観葉植物とにらめっこを始めた。
時任はそんな伊倉には一瞥もくれない。床に置いてある段ボール箱を覗き込み、そのうちの一つから注文書を見つけ出した。注文書には発注日の記載がある。
時任はスマートフォンを操作し、発注日を入力する。そして、迷わず決定ボタンを押した。
時間が巻き戻り、大量のコーヒー豆が姿を消していく。そうして二人がやってきたのは、さらに二週間前の喫茶店だった。




