12.終わりよければすべてよし
夫婦喧嘩を止めると決めた二人だったが、具体的なアイディアは持ち合わせていなかった。
伊倉はウーンと首をひねる。
「試しに大声で叫んでみるというのは?」
「あれがその程度で止まるように見えるか?」
「なら、無理やり引きはがしてみては?」
そう提案した伊倉の目に飛び込んできたのは、妻の明美が夫の順平の胸倉を掴む姿だった。
「一言目には仕事、仕事って! 私と太陽のことなんて、何一つ考えてくれてないじゃない!」
あまりの迫力に、時任は後ずさる。
「これを引きはがすのは、無理だ」
「……そうだな。ところで、太陽っていうのは何のことだろうか?」
「知らん。話の流れからして、さっきの子どもの名前じゃないか?」
「確かに、そう考えるのが自然だな」
二人が話している間にも、喧嘩の勢いは収まらない。
「考えてるさ、俺なりに! だけど、なんでもお前の言う通りってわけには――」
「そうやって、いつもあなたは言い訳ばっかり! もう少し、建設的な案でも出したらどうなの?」
明美の辛辣な物言いは、順平以上に二人に突き刺さった。
「耳が痛いな……」
「ああ……」
二人して肩を落とす。伊倉は気まずそうに時任にチラリと目線をやった。
「時任、何かいいアイディアはないか?」
「そうは言ってもだな……」
時任は珍しく自信なさげな声色で小さくつぶやいた。
「……結婚指輪」
「指輪?」
「指輪を落として注目させれば、結婚したころのことを思い出して、何かこう……うまくいくんじゃないか?」
伊倉は、物珍しそうな目で時任を見た。
「お前、案外ピュアなんだな」
「うるさいな」
時任は目を逸らした。しかし、伊倉は時任の腕を掴んで引き寄せると、ニヤリと笑った。
「それでいこう」
「冗談だろ?」
伊倉は順平のすぐ横にしゃがみこみ、その左手をじっと眺めた。
「上手くいくかどうかは分からないが、他に良い案も思いつかない」
「本気でやるのか……」
時任は半信半疑といった様子だ。
◇
時任はそっと順平の左手の薬指へと手を伸ばした。伊倉が顔を寄せて囁く。
「ほら、そっとだぞ? くれぐれも慎重にな?」
「分かってるから、落ち着け」
時任は指輪をそっとつまんで、軽く回しながら指から引き抜き、そのまま手を離した。
指輪は落下し、地面にぶつかる。キン、という金属のぶつかる音が響いた。
「あっ」
「あっ」
「あっ」
「あっ」
伊倉と時任、そして上野夫妻の声が重なる。
指輪は落下した勢いで二回バウンドし、コロコロと転がっていく。指輪の向かう先には、排水溝の穴がある。
最初に動いたのは伊倉だった。
勢いよくダッシュし、指輪に向かって飛びついた。両手で指輪の行く先を塞ごうとするが、残念ながら伊倉は過去に干渉できない。頑張りむなしく、指輪は伊倉の両手をすり抜けていく。
次に動いたのは順平だった。
順平は廊下を走った。転がる指輪に手を伸ばすが、わずかに届かない。
すると、順平は躊躇することなくコンクリートの廊下に向かってダイブした。ドシャッ、という音とともに順平が倒れ込む。順平の両手が排水溝の穴をふさいだ。
そしてその直後、指輪が順平の手にコツンとぶつかった。指輪は勢いを失って倒れる。
順平はホッと息をつくと、指輪を拾い上げた。大事そうに汚れをはらい、左手にはめる。そんな順平に明美はゆっくりと歩み寄った。
「別にそんなに大事なものでもないし、そこまで必死にならなくてもよかったのに」
明美は冷たい表情で順平を見下ろしている。しかし、順平は先ほどまでとは打って変わってさっぱりとした表情だった。
「いいや、これだけはなくすわけにはいかないんだ」
「そ、そう」
順平はゆっくりと立ち上がると、ズボンについた砂を払う。
「とりあえず、家の中に入ろう」
「……そうね」
二人はすっかり落ち着いた様子で、部屋の中へと入っていった。バタン、と部屋の扉が閉まり、廊下には伊倉と時任の二人だけが残される。
◇
二人は釈然としないという表情で顔を見合わせた。しばしの沈黙の後、先に口を開いたのは伊倉だった。
「これは、うまくいったのか……?」
時任は渋い表情で考え込んでいる。
「分からん」
再びの沈黙。そこで時任は、再びスマートフォンを操作した。早送りで時間が進み、先ほど明美が家出をした時間に戻ってきた。
そこには、どこかへと出かけていく順平と明美、そして明美の腕に抱かれる太陽の姿があった。仲睦まじく、というわけでもないが、先ほどまでのようにいがみ合うこともなく、並んで歩いている。
そんな二人を、伊倉は満足げな表情で見守っていた。
「狙い通りだ」
「嘘をつくな」
時任はすかさず噛みついた。
「あんな展開、狙ってできるはずもない。そもそも、あれで解決するというのも意味が分からない」
「でも実際、家出の危機は回避できている。だから、成功だ」
「それはそうだが……」
納得いかない様子の時任を見て、伊倉は気安い仕草で時任の肩に手を置いた。
「人間関係なんてこんなものだろう。些細なボタンの掛け違いで、全然違う結果にもなる」
「そういうものか?」
「そういうものだ」
「……」
時任は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。スマートフォンで手早く申請を行う。
「承認待ち」と画面に表示されたことを確認して時任が顔を上げると、伊倉は手すりに肘をついてマンションの外の景色を眺めている。
時任は伊倉に文句をぶつけた。
「まったく、とんだ寄り道だった。お前のお陰で捜査がさっぱり進まない」
「でも、そのお陰で助かった人たちがいる。それで、いいじゃないか」
「そうやって誤魔化そうとするな。捜査が進んでいないのは事実だろう」
「それはそうだ。ああ、そういえば」
伊倉はそこで言葉を切ると、下の階を指差した。
「結局、この後の捜査はどうする? やはり澄野玲香の部屋を調べるか?」
「……」
時任は無言のまま頭を抱えた。
玲香の部屋を勝手に調べるのか、調べないのか。目を逸らしていた難題が、再び二人の目の前に降りかかってきた。




