11.夫婦喧嘩の止め方、募集中
無事に過去改変を終えた二人は、再び9月1日の玲香の部屋の前に戻ってきていた。
ガチャリという音とともに、隣の部屋の扉が開く。
先ほどと同じく老婦人が姿を現した。しかし、その手に松葉杖はない。怪我をしている様子もなく、軽快に歩いている。
伊倉は安堵の笑みを見せた。
「ちゃんと助けられたみたいだ。よかった」
一方、時任の表情は険しい。
「勘弁してくれ。早く本題の捜査に戻らないと」
「無駄ではないだろう。こうして一人、助かった人間がいるんだから」
「それとこれとは話が別だ。現に、澄野玲香の事故に何一つ影響を与えてられていない」
時任の指摘に、伊倉はピタリと動きを止めた。
「なぜ分かる?」
伊倉の問いに、時任はため息をついた。
「少し考えれば分かるだろう。もし過去がすでに変わっているのなら、伊倉、なぜお前はここにいる?」
「我々は過去を変えるためにここにいる。とすれば……変えるべき過去はまだ変わっていないってことか」
時任は頷いた。
「そもそも、隣人の事故を防いだ程度のことで、澄野玲香を救えるはずもない。分かったら、さっさと次に――」
時任の声を遮るように突然、どこからか甲高い声が響き渡った。
「いい加減にしてよっ!」
伊倉と時任は顔を見合わせた。周囲に目を向けても、声の主らしい人影は見当たらない。
そんなことをしている間にも、どこからか口論が漏れ聞こえてくる。二人はどちらからともなく言った。
「行こう」
「……うむ」
マンションの廊下を、二人並んで駆けていく。
◇
ひとつ上の六階で声の主は見つかった。
廊下の中ほどで若い男女が二人。周囲の目も気にせずに言い合いをしている。
二人の身長差は二十センチほどはあったが、背の低い女の方が男を壁に追い詰めていた。
「いつも言ってるじゃない! もっと早く教えてって!」
「そんなこと言ったって、急な話だったんだからしょうがないだろ……」
男は額に汗をかきながら、なんとか女のことをなだめようと必死だ。
「そんなことより、今はもっと大事なことが――」
「そんなこと、ってどういう意味!?」
口調はヒートアップし、収まる気配はない。時任はわずかに顔をしかめた。
「ただの痴話喧嘩か。戻るぞ」
時任が二人に背を向けて再び階段を降りようとしたところで、伊倉がその腕を掴んで止めた。
「こんな面白そうなシーンを見逃すなんて、もったいなさすぎるだろう!」
伊倉は楽しそうに声を弾ませている。男女のもとへと駆け寄ると、至近距離で喧嘩の様子を観察している。
時任はそんな伊倉に冷ややかな視線を送った。
「喧嘩中の人間を捕まえて面白そうとは、だいぶ失礼な物言いじゃないか?」
「そう言うな。夫婦喧嘩なんて、そうそうお目にかかれるものじゃない」
「夫婦?」
時任は改めて男女に視線を送った。確かに、二人の左手には結婚指輪が光っている。時任は遠慮がちに言った。
「夫婦喧嘩なんてプライベートなもの、あまりじろじろ見ない方がいい」
「ほら、表札を見ろ。この夫婦は上野さんというらしい」
伊倉は時任の忠告など聞こえていないかのように、喧嘩を見守っている。
いつの間にか、喧嘩はさらに激しさを増していた。今度は夫の方が言い返している。
「そうは言っても、仕事なんだからしょうがないだろ! 育休期間も終わったんだし、仕事で忙しくなるのは明美も納得してくれてたじゃんか」
「順平はいっつもそう! 仕事って言えばなんでも許されると思ってるの?」
夫の方が上野順平、妻が上野明美というようだ。
「なんでも許されるとは思ってない。でも、なにもかも許さない、っていうのは極端じゃないか!」
「そんなこと言ってない!」
「言った!」
互いに興奮して、水掛け論になってきた。時任は見ていられなくなり、伊倉へと視線を送る。
先ほどまで楽しそうにしていた伊倉すらも、あまりの迫力に目を泳がせている。時任の視線に気づくと、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「夫婦喧嘩って、どうやって止めればいい?」
「知るか」
「天下の時空警察も、それは知らないのか」
「関係ないだろ」
時任は大袈裟にため息をついた。
「まさか夫婦喧嘩を止めよう、なんて言わないだろうな?」
「もちろん、言う」
伊倉はあっさりと言い切った。時任はげんなりとした表情だ。
「簡単に言ってくれるな。何度でも言うが、今日の目的は澄野玲香の事故の調査だ」
「いやいや。この二人は澄野玲香のちょうど真上の階の住人だ。関係はある」
「ないだろう」
「そうか? 実際に調べてみないことには分からないはずだ」
そんなことを話している間にも、夫婦の口論のボリュームがどんどん上がっていく。伊倉は時任の腕を掴んで揺すった。
「と、とりあえず、もう少し時間を進めてみて、喧嘩の結末がどうなるのか見に行ってみよう」
「そ、そうだな」
時任はスマートフォンを操作し、時間の流れを早送りにした。飛ばし飛ばしで確認していく中、時任の手が止まった。
廊下での喧嘩から、およそ二時間後。妻の明美が、小さな男の子の手を引きながら部屋から出て行った。もう片方の手には、大きなスーツケースがある。
伊倉が気まずそうな表情で時任を見た。
「これは、家出……か?」
「ああ……」
さすがの時任も、気の毒そうな表情だ。男の子は名残惜しそうにチラチラと後ろに視線を向けるが、明美は振り向きもしない。真っすぐエレベーターに乗り込んで扉が閉じると、六階のフロアは静寂に包まれた。
伊倉も時任も、想定外の事態に言葉が出ない。
先に動いたのは時任だった。黙ってスマートフォンを操作し始める。伊倉は小声で尋ねた。
「どうする気だ?」
「別の場所を捜査する」
時任は追求を逃れるように目を逸らした。それを、伊倉は見逃さなかった。
「おいおい、上野夫妻のことは見なかったことにするのか?」
「そうするしかないだろう」
時任はとにかく時間を戻そうと、スマートフォンをタップする。そんな時任から、伊倉は一瞬の隙をついてスマートフォンを取り上げた。
「あの夫婦喧嘩を止めたい」
「いい加減にしろ。何にでも、首を突っ込めばいいというわけじゃない」
時任の反論はいつもと変わらないように見えて、その口調は歯切れが悪かった。スマートフォンを取り返そうとする時任をかわしながら、伊倉は言った。
「夫婦喧嘩の様子をのぞき見してしまった、罪悪感はあるだろう? だったら、責任は取らないといけない」
「……」
時任は無言だったが、即座に否定しない時点で認めたも同然だった。時任は伊倉の手からスマートフォンをひったくるように取り返した。
「今回限りだからな?」
「よしきた」
伊倉は嬉しそうに指を鳴らした。




