10.コインの落ちる音
玲香の事故の、一週間前の朝。
家から出てきた老婦人の手には、松葉杖はない。ゆっくりと、それでもしっかりとした足取りで歩いていく。
伊倉と時任は、その後ろ姿を追った。
エレベーターで一階まで降り、駅の方向へと歩く。老婦人は駅前に続く大通りではなく、狭い裏路地を選択した。
住宅に囲まれ、油断しているとどこを歩いているのか分からなくなりそうな道だ。しかし、老婦人はさすがに通い慣れた道のようで、迷うことなくスイスイ進んでいく。
そんな中、事は起こった。
曲がり角の先から、急に軽トラックが飛び出してきた。老婦人は突然の出来事に飛び上がる。
「うわっ」
老婦人はのけぞり、後ろに倒れ込んだ。軽トラックとの接触はなんとか回避したが、そのまま地面に強く身体を打ちつける。
一方の軽トラックはというと、老婦人には気づかなかったようだ。スピードを緩めることなく、そのまま通り過ぎて行ってしまった。
◇
伊倉は顔色を変え、急いで老婦人に駆け寄った。しかし、老婦人が倒れているのは過去の世界だ。伊倉にはどうすることもできない。
ちょうど通りかかった宅配の配達員が、倒れた老婦人に気づいて声をかけた。老婦人は立ち上がれそうにない。足を痛めたのか、顔を歪めている。
配達員がスマートフォンを取り出した。どうやら、救急車を呼んでいるようだ。
伊倉が時任を振り返った。
「……時任」
「分かっている。軽トラのナンバーは控えている。署に戻ってから照会して、加害者を特定する」
時任は一瞬で刑事モードに切り替わった。
時任は手元のスマートフォンを再び操作する。過去の世界であれば、事故の瞬間の映像も記録できる。一分前に時間を巻き戻し、事故の瞬間をとらえようとした時任だったが、伊倉は時任の腕を掴んでそれを止めた。
「待て」
「なんだ」
時任は伊倉を探るような目で見た。
「伊倉。非接触ではあるが、これはれっきとした交通事故だ。警察官として、見過ごすわけにはいかない」
「それは警察の理屈だ。俺は、なんでも屋の理屈で行動させてもらう」
伊倉は老婦人の横に膝をつく。そして、悲しそうに目を伏せた。
「軽トラを捕まえたところで、ご婦人の怪我がなくなるわけじゃない。だったら、事故自体を防ぐのがベストだとは思わないか?」
「事故は事故として処理すべきだ。過去を変えてもなんの解決にもならない」
「あの軽トラだって、見通しの悪い道でちょっとスピードを出し過ぎただけだ。確かに少々よくないことだが、逮捕するほどのことも思えない」
サイレンの音が鳴り、救急車が到着した。老婦人が担架に乗せられ運ばれていく。
二人は黙ったまま、その様子をジッと見つめていた。フッと、互いの視線がぶつかる。
「……仕方ないな」
「よしきた」
時任はスマートフォンに事故発生の一分前の時刻を入力する。決定ボタンを押す前に、伊倉に尋ねた。
「どう過去を変える?」
「そうだな……倒れかけたご婦人を受け止めるってのは、解決になってないか?」
「ああ。非接触、無傷でも事故は事故だ」
「うーむ……」
伊倉は顎に手を当てて考え込んだ。時任が真面目な口調で付け加える。
「ちなみに、俺たち時空警察が過去に干渉できるのは、"3秒間だけ"だ。つまり、軽トラをどこかまったく別の場所に移動させるような、大がかりなことは不可能だ」
唐突に明かされた新情報だったが、伊倉は表情一つ変えずに思考を巡らせている。
「なるほど。では、ご婦人を抱きかかえて、道の手前で止める、というのは?」
「事故は防げても、別の問題になりかねない。不審者に抱きしめられたとかで、騒ぎになって困るのは警察だ。タイムマシンにつながる手がかりを、わずかにでも残したくない」
「ふむ。と、なれば……」
伊倉は人差し指を立て、ニヤリと笑った。
「こういう作戦はどうだろうか?」
◇
まもなく事故が起こる現場の路上で、伊倉と時任は頷き合った。
「準備はいいか?」
「ああ」
道の向こうからは、老婦人がゆっくりと歩いてくる。
二人は、曲がり角の前にある自動販売機の前で待機していた。伊倉は釣銭の返却口を覗き込むと、時任に向かってグーサインをした。
「ちゃんとある。使えそうだ」
「分かった」
時任は頷き、時が来るのを待った。少しずつ、老婦人が曲がり角へと近づいていく。
静かな住宅街に、ザッ、ザッ、と、老婦人のすり足が地面をこする音だけが響く。
老婦人が曲がり角へと差し掛かり、軽トラックがやってくる。
もうすぐ、事故が起こる。そのタイミングで、時任が動いた。
時任は釣銭の返却口に手を突っ込み、中をさらった。出てきたのは、誰かが忘れていった十円玉だ。それを、老婦人の後方のマンホールに向かって投げつける。
ジャスト3秒。
キィン。
金属と金属がぶつかり合う音が、周囲に響き渡った。老婦人は立ち止まり、後ろを振り向く。しかし、地面を転がる小さな十円玉には気づかない。老婦人は首をかしげる。
そんな老婦人の背後を、軽トラックが勢いよく通り過ぎて行った。
十円玉はコロコロと転がり、側溝へと落ちていった。老婦人はなおも釈然としない表情だったが、結局コインに気づくことはなく、再び歩き出した。
◇
「上手くいったな!」
「ああ」
伊倉は歯を見せて笑った。依然として無表情な時任とは対照的だ。
伊倉は、ふと何かを思い出したように顎に手を当て、疑問を口にした。
「これ、ご婦人の視点からはどう見えてるんだ?」
「当然、俺たちの姿は見えていない。今回あのご婦人はコインに気づかなかったようだが……仮に見られたとしても、コインが突然現れて、勝手に転がっているように見えるだけだ」
「へえ。そうなるのか」
伊倉は感心したように頷く。時任は表情を崩さず、引き続きスマートフォンを操作した。伊倉はその画面を覗き込む。
「何してるんだ?」
「現時点では、まだ過去は変わっていない。電脳世界上で、過去を変えた後の世界をシミュレートしただけだ」
「ふむ」
「これから、この改変が問題ないかどうか、担当部署にチェックしてもらう」
時任は慣れた手つきで申請フォームを開き、必要事項を入力すると、申請ボタンを押した。
「この後、警察のサーバー内で改変後の世界のシミュレーションが行われる。未来に重大な影響がないと判断されれば、最後の署長承認へと進める」
「そんな感じなんだな」
興味深そうに眺めている伊倉を、時任は訝しげに見た。
「とぼけるのはよせ。何度も時空警察に押しかけては過去を変えてきたお前が、こういう事情を知らないわけがないだろう」
時任の指摘は至極当然のことだ。しかし、伊倉はバツが悪そうに照れ笑いを浮かべた。
「いや、いつもは、『ちょっと過去変えといて』とだけ伝えて、あとはおまかせだったからな。目の前で見たのは初めてだ」
「……お前はもう少し、時空警察に感謝すべきだ。ありがたみを全然分かっていない」
「肝に銘じよう」
伊倉は生返事をしながら、画面を覗き込んだ。申請ステータスの欄は「シミュレーション中」となっている。
過去を変えた後の世界を丸ごとシミュレーションするなど、どれだけの計算時間を要するのか。
しかし、一分もしないうちにステータスが「責任者承認待ち」へと変わり、そのさらに数分後には、ステータスは「承認済み」となった。
時任は小さくフッと息を吐いた。
「これで、過去改変は完了だ」
「さすがだな、時任!」
伊倉はハイタッチをすべく右手を高く掲げた。しかし、時任は応じない。行き場を失った右手が、寂しく虚空を切った。




