15話 先生と地図
「お嬢さま、キーファス先生がお見えになりましたよ」
ニーネの声にはっとして顔を上げる。
慌てて窓の外を見ると太陽の位置が前に確認したときよりも傾いていた。
持っていた本に栞を挿んで閉じると、うーんと思い切り腕を振り上げて伸びをする。少々はしたないが、ここにいるのはニーネと私だけなので大目に見てもらおう。
ずっと同じ体勢でいたせいで凝ってしまった身体を解しながら、立ち上がった。
「もうこんなに時間が経っていたんですね」
「はい、ずいぶんと集中していらっしゃいましたね。先生はいつもの客間にお通ししてよろしいでしょうか?」
ニーネの言葉に、少し考えてから答える。
「今日は天気が良いので、中庭にお願いします」
「かしこまりました」
中庭にはお母さまたちとお茶をするため、普段から丸い机と椅子が数脚用意されている。
適度に密集した木々の隙間を涼しい風が吹き抜けた。
さらさらと髪を揺らす。
身だしなみを整えている間に先生はそこに案内されていたようで、木陰になった席にちょこんと座ってお茶を飲んでいた。
「キーファス先生、お待たせして申し訳ありません。本に夢中になっていたみたいで」
軽く頭を下げる。
「ほっほっほ、気にせんで良いぞ。待たされたと思うほど待ってはおらんからのぅ。なにより、ここの茶菓子は美味しいのでな、時間なんぞあっという間じゃて」
「ありがとうございます」
ニーネがその正面の椅子を引いてくれたので、私は遠慮なくそこに座った。
「おお、そうじゃ! それに、エゼロおじいちゃんと呼んでくれて良いのじゃぞ」
そんなことを言うこの小柄な老人。
エゼロ・キーファス先生は、私に勉強を教えてくれている家庭教師の一人だ。
顔に刻まれた深いしわに、真っ白な髪。年齢ゆえに背筋は曲がっていて、それがさらに先生を小柄に見せていたが、別段そこに弱々しさは感じられない。
垂れ気味な目は温和そうな印象を与え、ちょっとした茶目っ気を忘れない性格も持ち合わせている。
前世から人付き合いの苦手だった私にとっては困惑することも多いが、けれどそれは決して嫌ではなかった。
かつては王都の学校で講師をしていたそうで、他者との距離の取り方、接し方、そして扱い方がうまいのだと思う。
高齢になり引退し隠居生活を送っていたところを、ちょうど私の家庭教師を探していたゼルフォード家に呼ばれたらしい。
前に一度、無理に引き受けてもらったのではないかと謝ったことがあったが
「人生を研究にばかり費やしておったから別段、趣味もなくてのぅ。暇を持て余していたくらいじゃから、むしろこの話は渡りに船じゃったよ。それに今は優秀な生徒を教えられて嬉しいのじゃ」
と笑っていた。
しかも、どうやら王都では有名な講師であったようで、私の勉強を見てくれるのが『エゼロ・キーファス』だと聞くと、ニーネたちは一様に驚いたものだ。
そして口々にキーファス先生の素晴らしさを語った。
いわく、歴代の国王は先生の教え子で、いまだに現国王の相談役として城にも呼ばれるだとか。国の要職たちから一目置かれているだとか。他国からも引き抜きを打診されたとか。
そんなに凄い人をこんな子供の家庭教師にお呼びするとは、と今度は逆に私が驚く番だった。
そういった逸話を持つ方なので、さすがに教え方が上手く、知識も豊富であるため疑問を口にすればすぐに答えをくれる。
もちろん、ただ答えだけを与えるのではなく、課題と称して次回までに考えさせ自分なりの解答を求めてくることもあった。
まだ短い付き合いだったが、噂通りキーファス先生は優秀な講師だったのだろうと察せられた。
「嬉しいお言葉ですが、それはまた今度にします。今は先生と生徒ですから」
「うーむ、残念じゃ。シェリーナちゃんは真面目じゃのぅ。そこがまた爺心をくすぐるのじゃが」
爺心・・・・・・ここはあいまいな笑顔を浮かべて誤魔化しておこう。
ほっほ、と笑いながらキーファス先生は椅子の横に置いてあった細長い筒から巻物を取り出すと、机に広げて見せた。
「さてさて。今日はこれを持ってきたのですぞい」
大小さまざまな図形がいくつか描かれた紙と、そのうちの大きな図形の一つを切り取り拡大したような絵が描かれた紙。
紙とは言うが、この世界に普及しているのは動物の皮から作られた、いわゆる、羊皮紙というやつである。
いつか機会があれば、植物繊維から作る紙を復元したいものだ。
ともかく、私は身を乗り出してそれを見た。
「これは・・・・・・地図、ですか?」
「おぉう、正解じゃ! よく分かったのぅ。こっちが世界地図で、こっちはクトーヴァ大陸の地図じゃな。今回はこれで地理の勉強を始めようかの」
「はい、先生!」
わくわくするのを抑えられずに前のめりに返事をしてしまい、先生は微笑ましそうに目を細めていた。
* * *
そんなひと幕を思い出しながら、頭の中に地図を広げた。
この世界には現在確認されているだけで五つの大陸と、それぞれに属するいくつかの島が存在する。
つまり、確認されていない未知の領域もあるということでもある。
前世と違って魔法という便利な手段に頼ることが多いせいなのか、世界的に文明の発展が遅れているようだ。
もちろん屋敷に籠っている私がこの目で見て確かめたわけではないから、キーファス先生やほかの教師たちに習った内容から導き出したことだが。
推測するに、この世界では蒸気機関すらなく、いまだ風を動力とする帆船を使って海上を移動しているようなのだ。飛行技術など論外だろう。
それはさておき。
五つの大陸、そのうちの一つであるクトーヴァ大陸。
私たちが住むのは、そのクトーヴァ大陸を東西に横断するように広がるユオ山脈を背にしたエスルレーヴェ王国である。
余談ではあるが、エスルレーヴェには海へと繋がる河川はあるが、直接には面していない完全なる内陸国だ。
よって、塩は他国からの輸入に頼るしかない。この国で塩が高い理由はまさにここにあった。
すぐ隣には海に面したレンノ公国があり、そこから輸入しているのだが、関所を抜ける際に膨大な税がかけられているのである。
ほかの作物にしても同じではあるが、明らかに足元を見られている。
国の上層部はこの問題に長年頭を悩ませているそうだ。
私としても食文化充実のために、早めになんとかしてほしいものである。
対して、イスラギ帝国はお隣、ロンドルノ大陸の大国だ。
クトーヴァ大陸よりも南にあるため、ここよりも暑い国だと習ったような気がする。
どうやらこのお客人、海を渡って来たらしい。
もう一度、彼の言葉を反芻する。
『イスラギ帝国第三皇子フェンユと申します』
皇子。
・・・・・・皇子って言いましたね。
つまり、裕福。お金持ち。贅沢。
お菓子。お菓子。お菓子!
「あのっ、ロンドルノには甘いお菓子はありますか!?」
もう頭の中にはそれしかなかった。
小走りで駆け寄ると、彼を見上げて勢い込んで話しかける。
「お、お菓子、ですか・・・・・・」
心なしか一歩引かれたような気がするが、あえてここは無視する。
「はい! 砂糖をたっぷり使った甘くてとろけるようなお菓子や、蜂蜜をふんだんに使った焼き菓子などはありませんかっ? 氷菓子、練り菓子、干菓子」
他大陸ならば、こちらとはまた違った食生活を送っているかもしれない。
生活によって食事の様式も変わってくる。
つまり、この国にはない甘味が存在する可能性も出てくるということだ。
「焼き菓子とかでも構いません! ありませんか! ありますよね!」
お菓子!
お菓子!
お菓子!
私にささやかな幸せの情報をください。
希望を込めた目を向ける。
「あ、ええと。申し訳ありません、そういったことには詳しくなくて・・・・・・」
その言葉にはっと我に返る。
少し考えれば分かったことだ。
彼は『皇子』ではあるが、だからといってお菓子に興味があるかと聞かれたらそうではない可能性もあるだろう。
そのことを私はすっかり失念していた。
フェンユ皇子は困ったように眉を下げ、ちらりと視界の隅に入った姉でさえ呆然とこちらを見ている。
ああ、またやってしまった。
とんだ失態を晒してしまった。
なにをやっているんだろう、私は。
「そう、ですか。・・・・・・失礼いたしました、少々取り乱してしまいました」
あからさまにがっかりしてしまったが、大目に見てほしい。
一呼吸吐いて、皇子から少し距離をとる。
そうすると今まで見えていなかった周囲の様子が見えてくる。
父は相変わらず無表情だがどこか唖然としているし、母はいつも通りにこにこしているが、さすがの双子も目を丸くしている。
さて、これからどうしたら良いのだろう。
と思っていたら、いつの間にか背後に立っていた姉が呟きをもらした。
「・・・・・・い」
聞き取れずに、振り返る。
「姉さま?」
「ずるいわ! わたくしもシーナに走り寄ってきてほしい! 可愛い顔で上目遣いに見てほしい! しゅんとした顔を間近で見たい! ね、シーナ、今のもう一回わたくしに向かってやってみてちょうだいな」
膝をついて私と目線を合わせる姉の顔は、どこまでも本気だった。
意味が分かりません、姉さま。
思わず固まってしまった私に、姉はさらに言い募る。
「さ、遠慮しないで良いのよ。あ、わたくしが屈んでいたら上目遣いができないわね。わたくしってば、うっかりしていましたわ」
そう言ってうっすらと頬を染めて立ち上がるが、そういう問題ではない気がします、姉さま。
さっきとは別の意味で、これからどうしたら良いのだろうか。