第21話 九時三分の悲鳴
レインは約束の五分前に着いた。
廊下の当番、兵士ケスが扉を開ける。
「ハル殿は奥です。記録室の封鎖は九時から。面会の退出確認まで、私がここにいます」
原本を扱う部屋は、人の出入りを残すため、作業中に封鎖結晶を使う。入室者は封鎖前に記帳し、出るときは当番が解除する。
部屋の奥に、背の高い衝立があった。
ハルはその向こうの机に座っている。肩と、机に置いた右手だけが見えた。
「先生」
「書類を……入口の箱へ。少し、待ちなさい」
かすれた声だった。
レインは書類を置いた。
「こちらで待ちます」
返事はなかった。紙をめくる音もしない。
机の脇には、ハルが使う音声時計がある。設定した時刻に録音筒を回し、仕事の予定を読み上げる道具だ。ハルは腰を痛めてから、時刻ごとの体操まで吹き込んでいた。
ゼンマイの音が、短く聞こえた。
時計の小窓に、筒の端が見えた。いつもの短い筒より長い。
ハルは最近、指示をまとめて吹き込むようになったのだろうか。
レインは壁に掛かった図表へ目を移した。王都の公文書の保管区分。原本、写し、控え。それぞれ違う色の紐で束ねる。
初めてここへ来たころ、色を覚えられずに怒られた。
ハルは怒ったあと、同じ図表を小さく描いてくれた。今でも、レインの机の引き出しにある。
「先生、原本の出納簿も持ってきました」
レインが言う。
返事はない。
仕事へ集中しているときのハルは、何を言っても聞こえないことがあった。
それで、いいと思ってしまった。
声を聞いた。座っている肩も見た。ここにはいつもの先生がいる。
そう思った瞬間から、静かすぎることを、理由に変えてしまった。
衝立の下から、片足だけ見えていた。靴先は窓のほうを向いている。
机へ向かっているのに、変な座り方だ。
レインはあとで、その小さな違和感を何度も思い出すことになる。
九時。扉の結晶が点く。
レインは暖炉のそばで待った。薄暗い部屋のせいで、ハルの顔は見えない。
九時三分。
悲鳴がした。
レインは衝立を回り込んだ。
ハルの胸に、短剣が刺さっている。
「ケスさん! 人を!」
レインは老人を抱えた。手を傷へ当てる。まだ助けられるのか、どうしていいのか分からなかった。
扉の結晶が解除される。
兵士が入ってきた。
その後ろに、ヴォス。
「動くな」
レインの袖は血で濡れていた。
ヴォスが机を指す。そこには薄い紙があり、ハルの字を真似た文が書かれている。
『帳簿はレインに渡した。口外しない約束だ』
短剣の柄から、レインの魔力痕は出なかった。
彼は魔法を使えない。
「痕跡の出ない人間を選んだのが、我々の過ちだった」
ヴォスは言った。
レインは老人の手を握ったまま、首を振った。
指には、もう力がない。
助けてくれ、と言うより先に、言うべきことがあった。
「先生は、僕に帳簿を渡していません」




