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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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第6話 課長の決裁印が消えました

課長の決裁印が、課長より先に出勤した。


午前五時十二分、都内第一ダンジョンの排出口で回収。


黒水牛の縁に欠け。


印面には乾いた朱肉。


所有者名を照会するまでもない。


「第一種です」


ねむは透明袋の中の丸印を転がした。


「課長を第一種に分類する話なら、人事へ回せ」


「印鑑の方です」


相崎は課長席を見た。


蔵前は始業時刻を七分過ぎて現れ、コンビニの袋を机へ置いた。


「課長。落とし物です」


「俺は何も落としてない」


蔵前は上着の内ポケットから決裁印を出した。


同じ字体。


同じ大きさ。


同じ黒水牛に見える。


印鑑が二本、机上で向かい合った。


「省庁再編ですか」


ねむが訊いた。


「課長職を二人に増やす予算はない」


蔵前はコンビニ袋から胃薬を出した。


「片方を処分しろ」


「所有者が不要と認めました」


「今のは業務命令だ」


相崎は二本を鑑定台へ載せた。


排出された方は、十四年前に省内登録された原印。


蔵前が持っていた方は、先週製作された複製だった。


購入申請の理由欄には《更新》。


備考欄には《原印紛失予定》とある。


「予定を立てて失くすのは、行政として優秀ですね」


ねむが言った。


「褒めるな。定例評価に書かれる」


蔵前が紛失を予期して複製を用意したなら、備考欄の文言は説明できる。


「なぜ消えるとわかったんです」


「縁が欠けてた。替え時だと思っただけだ」


「なら『摩耗』と書きます。紛失予定とは書かない」


蔵前は胃薬の包装を折り畳み、胸ポケットへ入れた。


答えの代わりに、印鑑登録簿を相崎へ投げる。


原印の最終使用は三日前。


それ以後の課長決裁には、複製が使われている。


ぬいぐるみの申請書で見つけた、枠外に同じ角度で並ぶ印影だった。


しかし三日前以降の印影は、他者による持出しと不正決裁を示していた。


ねむは複製印の注文先へ照会した。


省内の指定業者ではなく、管理局の処分品搬送を受託している会社だった。


通常、印鑑を発注する業種ではない。


注文データには、課長印のほかに十二本分の印面画像が一時保存されている。


相崎の姓も一覧にあった。


ただし画像は破損し、照合できない。


ねむは十二件の画像メタデータを復元した。


撮影時刻は同時。


撮影機器の欄には、庁内複合機の製造番号がある。


印鑑を一本ずつ撮ったのではない。


十二人分の決裁書を一枚の台紙へ並べ、印影だけを切り出していた。


災害時の業務継続用に一括で予備印を作った可能性も残る。


その場合に必要な印鑑管理官の承認はない。


残り十一人の原印には、更新申請も紛失届も出ていなかった。


指定業者の受注担当を回線へ呼ぶ。


『印鑑としては受けていません。樹脂製の確認具、という伝票でした』


「誰が用途を説明しました」


『管理局の方です。処分品の箱と一緒に原稿が来ました。名前は、記録に残すなと言われて』


担当者の声がそこで小さくなった。


『あの、これ、うちが偽造したことになりますか』


「現時点では、製造工程の確認です」


ねむは断定を避け、梱包伝票の提出を求めた。


伝票番号の末尾七桁だけが、保存期限前なのに消去されている。


偶然の欠損なら、必要な箇所を選びすぎていた。


ねむは削除申請の受付番号を照会した。


該当する起案は存在しない。


業者の保存装置へ、管理局の共通アカウントから直接消去命令が届いていた。


共通アカウントを使える職員は二十七人。


蔵前だけを示す証拠ではない。


外部犯行とも言えなくなった。


「課長、委託会社へ印面を渡しましたか」


「発注に必要な分はな」


「十二人分必要だった理由は」


「今は俺の落とし物を処理してるんじゃなかったのか」


蔵前の言う通りだった。


他の印影を追う権限は、この第一種案件にはない。


ねむが監査起案を作ろうとすると、画面に権限不足が出た。


課長承認がなければ、課長印の発注先を監査できない。


制度は、自分の鍵を自分の内側へ置いていた。


相崎は入退室記録を照会した。


原印が消えた夜、課長室に入ったのは蔵前だけ。


複製の発注者も蔵前。


不正使用なら、本人が自分の権限を盗んだことになる。


「三日前、何を決裁しました」


「決裁書を見ろ」


三日前の最終案件は、処分品倉庫の棚卸し延期。


理由は、冷却設備点検。


添付された点検票は空白だった。


ねむが日付を拡大する。


「点検会社は、その日来ていません」


蔵前は机の端へ手を置いた。


指先だけが白くなる。


「印鑑の返却審査に、倉庫は関係ない」


「不要と判断した理由には関係します」


相崎は原印に触れた。


見えた輪郭は、紙の束。


閉じた鉄扉。


その前で、押すことをやめた手。


課長が捨てたかったのは印鑑ではない。


印鑑が成立させる決裁権だった。


それでも、原印を保留すれば、複製だけが正式印として残る。


複製のまま処分倉庫の書類を承認できる。


処分すれば、不正印影との照合原本が消える。


返却すれば、蔵前へ権限と責任を戻せる。


「第一種、返却可」


相崎は決裁印を取った。


印面が紙に湿る音がした。


ねむが原印を蔵前へ差し出す。


蔵前が受け取った瞬間、印鑑管理システムは複製を無効化した。


同時に、過去三日分の決裁がすべて《本人再承認待ち》へ変わる。


棚卸し延期も赤く点滅した。


返却によって、蔵前はもう一度、自分の名前で倉庫を閉じるか開けるか決めなければならなくなった。


再承認待ちは八十七件あった。


蔵前が原印を一件ずつ押し直さなければ、処分搬送も、被害者への返却も止まる。


最初の電話は、記憶片の返却を待つ申請人からだった。


二本目は、処分期限を過ぎれば元配偶者へ通知が行く案件。


三本目が鳴る前に、蔵前は受話器の線を抜いた。


「返却の副作用まで納品するな」


「付属品です」


ねむが未決件数を印刷した。


紙は床へ届きそうな長さになった。


蔵前は先頭の一枚を取り、原印を朱肉へ置いた。


一件目を押すまでに、胃薬の包装を二度折り直した。


「余計な物を返しやがって」


「遺失物課ですから」


「サービス精神が過剰だ」


蔵前は原印を握り、印鑑登録簿へ復帰の受領印を押した。


その手が机から離れるまで、いつもより長くかかった。


冷凍保管庫の低周波音が床を伝う。


蔵前は二本目の胃薬を水なしで飲み込んだ。


「相崎」


「何です」


「あんたも、そのうち手放したくなるよ」


彼の目は相崎の印鑑ではなく、一番下の引出しを見ていた。

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