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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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第5話 指輪の刻印が消えている

指輪の内側から、結婚した日だけが消えていた。


表面の傷は十三年分ある。


内周は、製造直後のように滑らかだった。


「妻から返却申請。夫からは照会への回答なし」


ねむが検査トレイを相崎の前へ置いた。


リング本体は第一種。


不足質量は〇・〇四グラム。


製造元の台帳には、日付と二人の頭文字を刻んだ記録が残っている。


「研磨店に持ち込んだ可能性は」


「表面に研磨剤なし。削り屑なし。金属ではなく、刻印の意味だけが欠けています」


地下三階の冷凍保管庫が起動し、トレイの水準器に細い波が立った。


相崎は申請人との面談を繋いだ。


妻は画面の向こうで、指輪の写真だけを見ていた。


『見つかったんですね。家中を探したんです』


「刻印が消えています」


『そんなはずないです。夫も一緒に決めた日付ですから』


妻の背後で食器棚が閉まった。


夫らしい男の腕だけが映る。


本人は面談に出ない。


妻の捜索と夫の拒絶が重なった可能性が、先に立った。


妻が指輪そのものを失くした。


夫が関係の証明を不要とした。


第三則により、指輪は吸われ、妻の欲求で本体だけが戻った。


「夫の意思はどう証明します」


ねむが小声で訊いた。


無回答は同意ではない。


夫婦であることも、一方の内面を行政が推定する許可にはならない。


相崎は住宅内機器の任意提出欄を見た。


妻が捜索のため、玄関カメラと音声端末の記録を一括提供している。


指輪が消えた夜、夫は一人で台所にいた。


映像では、指輪を指先で回している。


音声端末の自動字幕に一行だけ残っていた。


《この日付だけ、なくなればいい》


ねむが映像を止めた。


「これで証明になります」


「何の」


「夫が刻印を不要としたことです」


相崎は字幕の原音を再生した。


換気扇。


食器の音。


《この日付だけ、なくなればいいのに、覚えていられない》


末尾が字幕から落ちていた。


字幕の欠落は、別の読みを許した。


夫は結婚を消したかったのではなく、日付を思い出せない自分を消したかった。


それなら刻印だけが吸われた理由にならない。


医療照会に、半年前の認知機能検査があった。


異常なし。


認知機能の異常は、検査結果だけで外れた。


相崎は、指輪そのものを取り違えた可能性を残した。


十三年前の製造時画像と、現在の内周を三次元照合する。


刻印の右にある微小な鬆と、二年前のサイズ直しで生じた接合線が一致した。


同型品でも、複製品でもない。


製造店の担当者は、古い注文票を手元でめくる音を回線へ流した。


『最初は日付が一日違っていたんです。旦那さんが閉店後に電話してきて、翌朝までに直してくれと』


「本人が日付を指定した記録はありますか」


『訂正依頼の署名も、受取時の確認も、ご本人です。忘れやすい方には見えませんでした』


十三年前に覚えていたことは、半年前の検査結果を補強しない。


ただ、最初から意味のない数字だったという仮説は外れる。


ねむは夫の予定表を照会した。


結婚記念日は毎年登録され、今年だけ三度変更されている。


最初は夕食。


次は残業。


最後は《通知しない》。


変更した端末は夫のものだった。


日付を忘れたのではなく、今年は思い出させない設定にしていた。


検索履歴には、同じ日付で離婚相談の予約。


ただし予約は翌朝、取り消されている。


一晩だけ不要と思った。


朝には撤回した。


ダンジョンは、人間が考え直すまで待たなかった。


妻が画面越しに訊いた。


『返してもらえますか』


返却すれば、消えた刻印を妻が見る。


保留すれば、妻は夫と指輪を探し続ける。


処分すれば、夫の一夜の意思を国家が永続させる。


本人以外が判定主体になった以上、本人へ争う機会を戻すしかない。


「異議申立可」


相崎は夫を申立人とする書式を選んだ。


「本人へ通知。刻印が吸われた時刻と、返却申請が出ている事実だけを記載する。音声と検索履歴は添付しない」


ねむが入力しながら眉を寄せた。


「夫が異議を申し立てなければ」


「三十日後、妻への返却審査を再開する」


「夫が申し立てれば、妻は理由を知ります」


「選ばない期限を選んだのは規程だ」


相崎は返却側と異議側、二つの受付欄へ続けて押した。


通知先を確認したねむの手が止まる。


夫の公的連絡先は、夫婦共用の端末だった。


送信を取り消せる時間は十秒。


相崎が気づいた時には、既読が付いた。


画面の向こうで、妻の手元の端末が鳴った。


『異議申立て、って何ですか』


夫の腕が、食器棚の前で止まった。


行政が秘密を守ったのは、送信ボタンを押すまでだった。


夫は画面の奥から出てきた。


妻の隣には座らず、食器棚の前で立ったまま話した。


『異議を出します。返さないでください』


「理由を記録します」


『記録しなければ、申し立てられませんか』


「理由なしでも受理はします。審査では不利になります」


妻が夫の端末を机へ置いた。


検索履歴と離婚相談の取消画面が表示されている。


『この日、何をなくしたかったの』


夫は日付ではなく、滑らかになった指輪を見た。


『自分が、これを要らないと思った一晩を』


相崎は夫の異議理由欄へ、その言葉を記録した。


妻は返却申請を撤回しなかった。


代わりに、受領方法を対面へ変更した。


『これを見てから、私が決めます』


夫も異議書を送った。


同じ指輪について、返してほしい人と、返してほしくない人が、一つの住所から正式な当事者になった。


共同住所を理由に、システムは二件を自動で一つの家族調整案件へ束ねた。


妻が選んだ対面受領日は取り消され、最短の面談日は十九日後になる。


夫が理由を書かない限り審査は進まない。


理由を書けば、妻の開示請求対象になる。


二人の端末に、同じ期限だけが表示された。


面談をいったん終了し、ねむは返却保留棚へ指輪を収めた。


「刻印を忘れるって、本人が忘れる前にダンジョンが消せるんですか」


相崎はコーヒーの封を二本切った。


黒い表面に白い粒が浮き、冷凍保管庫の振動でゆっくり中心へ寄った。


机の引出しの中では、000001番の品目欄が白いまま残っている。


忘れた後に消えるのなら、制度は必要ない。


相崎はその文を口にせず、共用端末から届き始めた夫婦双方の異議通知を別々の案件として受理した。

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