第4話 ぬいぐるみと、別人の血
黄色い熊の右耳だけが、黒く固まっていた。
検疫廊下の照明に透かすと、毛の根元で血が粒になっている。
持ち主は六歳の女児。
血液は同居していた父親のもの。
父親は傷害容疑で逮捕され、母子は保護施設へ移っている。
「警察は現物移管、母親は処分、本人は『返さないで』です」
ねむが三枚の要求書を並べた。
「書類上、多数決は採用されません」
「六歳を一票に数える制度も嫌ですね」
「制度が年齢を気遣うのは、署名欄の大きさだけだ」
大型冷凍保管庫の低周波音が、検疫廊下の金属壁を伝っていた。
相崎は密閉袋を回した。
「――で、これは第何種?」
「熊は第一種。血液は付属物扱い。ただし警察は、血そのものを傷害の証拠と見ています」
県警の予備鑑定では、父親のDNA型と一致。
それだけなら、家庭内のぬいぐるみに父親の血が付いたという事実しか証明しない。
父親の弁護人は、逮捕時の鼻血が付着した可能性を主張していた。
最初に考えられるのは、熊が暴力の証拠として吸われた経路だった。
「排出時刻は逮捕の三日前です」
ねむが指摘した。
鼻血の反証はできる。
暴力の反証にはならない。
相崎は血痕画像を拡大した。
丸い粒が右耳の外側に七つ。
毛の奥には、横に引かれた細い線。
「飛んだ血と、握った手の血がある」
「科捜研も同じ所見です。けれど、誰が何をした時かまでは」
ねむは袋の底から、付属品票を取り出した。
熊の腹に音声記録装置が入っている。
抱くと童謡が流れる玩具だった。
最後の作動時刻は、排出の十一分前。
音声は通常保存しない。
だが、異常な圧力が加わった時だけ、故障解析用に十秒を残す。
再生すると、童謡の途中へ男の声が割り込んだ。
『それを寄越せ』
布が擦れる。
子供の声で、『くまは見てた』。
次に、硬い物が床へ当たる音。
記録はそこで終わった。
県警の担当者を回線へ入れると、音声の原本性を先に問われた。
父親側は、ダンジョンが持ち主の認識に合わせて記録を生成した可能性を主張している。
子供が父親を怖いと思ったため、実在しない声まで熊に定着したという理屈だった。
「時刻同期を確認しました」
ねむは玩具の内部時計を、家庭の通信機器ログと並べた。
玩具の時計は一日につき十九秒遅れる。
三百二十一日分を逆算すると、録音時のずれは一時間四十二分。
家庭内の通信記録にも、まったく同じずれで玩具の接続が残っている。
後からダンジョンが作った音声なら、壊れた時計の癖まで再現したことになる。
ねむは故障領域を調べた。
十秒の音声は、異常圧力を検知するたびに上書きされる。
工場出荷後、検知は一回だけ。
過去の会話を継ぎ合わせた録音ではなかった。
右耳の縫い糸も断面鑑定に回す。
血は内側から糸を伝っていた。
血の付いた手で耳を握り、熊を奪おうと引いた順序になる。
父親側は、女児が古い鼻血を内側へ塗ったと反論した。
ねむは血液の凝固層と、録音装置に残った温度を重ねた。
付着から録音まで、最大で六分。
「順序を読み上げろ」
ねむは、ここまでに出た三つの記録を一列にした。家庭の通信ログと同じ遅れ方をする玩具時計、右耳の内側から外へ抜けた血、異常圧力を一度だけ記録した装置。
「父親は血の付いた手で右耳をつかみ、女児から熊を奪おうとした。その圧力で音声が残り、十一分後に熊が排出された。声も血も、ダンジョンへ移る前のものです」
逮捕時の鼻血も、古い血を塗ったという反論も、時刻と付着順序が退けていた。
「ここまでは、可能性ではありません」
何が床へ当たり、誰が殴られたかまでは記録にない。それでも、熊の音声をダンジョンが後から作ったという説明は成立しなかった。
児童支援員が言った。
『この子は、もう四回、同じ日のことを聞かれています。三回目からは「くまに聞いて」としか答えません』
「この音声で、本人聴取を省けますか」
ねむが県警へ確認した。
『公判前整理で決まります。こちらから約束はできません』
証拠が増えても、質問の回数が減るとは限らなかった。
「原本性は認められます」
担当者は言った。
『ただし保留移管の場合、証拠開示の対象です。弁護側へ複製が渡る。女児への反対尋問を避けられるとは保証できません』
母親の提出音声も再生した。
『あの子は、熊を燃やしてって言いました。見えない棚に置くことを、なくすことだとは思っていません』
相崎は処分申請の署名を確認した。
母親の署名。
本人欄には、女児が書いた丸が一つ。
処分すれば希望には近づく。
その代わり、父親が声は作られた物だと主張する余地を残す。
父親が熊を奪おうとした。
熊には父親の血。
それでも、殴った瞬間を写した映像ではない。
ねむは、女児が証拠を守るため熊をダンジョンへ逃がした可能性を置いた。
「第一則では、不要と判断した物を吸います」
ねむは音声波形を見た。
「守りたい物を避難させる機能じゃない」
「本人が不要としたのは、熊か」
「熊が見たこと、かもしれません」
物体と、それに定着した記録。
子供が消したかったのは、証拠ではなく、毎晩抱いていた物に残った光景だった可能性がある。
警察へ返せば、証拠として開示される。
弁護側も音声を聞く。
法廷で、女児は「くまは見てた」の意味を訊かれる。
母親へ返せば、父親の血が付いた玩具が保護先へ戻る。
処分すれば、現時点で唯一の同時記録が消える。
「保留し、現物だけ警察へ証拠移管」
相崎は決裁書と移管票を重ねた。
「所有権は本人に残す。音声の複製は裁判所の許可が出るまで禁止」
「返してほしくない、という本人の希望には反します」
「国が保管すれば、本人の目から消えるだけだ。無くなりはしない」
相崎は保留欄へ押し、移管票へ同じ決裁時刻を記した。
警察の受領端末が点灯した。
同時に、児童聞き取りの予定表へ新しい一行が追加される。
《証拠品音声に関する補充聴取》
女児の負担を減らす決裁ではなかった。
証拠を残す代わりに、もう一度話させる決裁だった。
ねむは予定表を閉じ、移管票の承認欄を見た。
「課長印、もう押してあります」
蔵前の印影が、枠から半分外れている。
日付は今朝。
しかし熊が届いたのは二十分前だった。
「事前承認ですか」
「未来の証拠品を承認できるほど、課長の査定は高くない」
相崎は今週の課長決裁を三枚呼び出した。
どれも枠の外。
どれも傾きが同じ。
手で押したなら、三枚のずれが一ミリも違わないことの方が不自然だった。
複製印影。
そう仮定すれば整う。
だが、原本照合ではすべて本物と出た。
「課長へ確認しますか」
「先に、印鑑へ本人確認をさせる」
相崎は三枚を封筒に入れた。
廊下の先で、課長が壁に片手をついているのが見えた。
相崎と目が合うと、その手をそのまま掲示物を直す形に変えた。
「省エネ月間だ。廊下に立ってないで照明を消せ」
「課長が消える方が早そうですが」
「縁起でもない書式を作るな」
課長は封筒を見ずに通り過ぎた。
相崎は「医務室へ行け」を続け損ね、封筒の角を折った。
冷凍保管庫の音が、熊の空いた右耳を震わせていた。




