第3話 読みかけの文庫本、栞は他人のもの
文庫本を開くと、栞だけが指を離さなかった。
検査官の白手袋に、黒い革が貼りついている。
引けば革ではなく、手袋の表面が細く剥がれた。
「物理的な粘着は検出されません」
ねむは検査室のガラス越しに言った。
「では精神的な粘着として経費計上しろ」
「勘定科目がありません」
「来年度の要求理由ができたな」
相崎は本の返却申請を開いた。
所有者はC級探索者の小坂。
一か月前、第八ダンジョン第二層で落とした文庫本だという。
オンライン面談の画面で、小坂は表紙を見た途端に頷いた。
『それです。途中だったんで、返してもらえますか』
「栞に見覚えは」
『ないですね。本屋で中古を買った時から挟まってたのかも』
本の購入履歴は二年前。
古書店の電子レシートも残っている。
まず疑うべきは、栞が本へ偶然挟まった可能性だった。
本も栞も第一種。
一緒に返せば終わる。
「二つを同じ案件で扱えるか」
相崎が訊くと、ねむは検査結果を二枚に分けた。
「分類を分けます。本は第一種。栞は、物体としては第一種ですが、革の内部に第四種反応があります。関係性を定着させた媒体です」
栞の表面には、目に見えない圧痕が二種類あった。
一つは、小坂がページへ挟んだ跡。
もう一つは、それより古く、革そのものへ沈んでいる。
検査画像にすると、二人分の指紋の間へ細い文字列が浮いた。
《ここまで読んだら、待っていて》
「小坂さん、この文に覚えは」
『ありません。気味が悪いな。栞はいらない。本だけ返してください』
小坂の要求は明確だった。
だが、分離試験を始めると、本のページが一枚ずつ勝手に戻った。
百八十七頁。
百二十頁。
四十一頁。
最後に、奥付で止まる。
発行日は五年前の事故より前だった。
「本が栞を引き留めている?」
ねむが対立仮説を出した。
「逆かもしれない。栞が本に、読み終えたことを認めさせない」
「所有者が死んでいて、約束だけが未完了だから」
相崎は答えず、古書店の仕入れ記録を照会した。
本は五年前、管理局の委託倉庫から一括放出された箱に入っていた。
記録上は「所有者不明・第一種・換価可能」。
だが、箱番号の末尾だけが手書きで修正されている。
小坂が拾ったのでも、盗んだのでもない。
国が売った本だった。
だが、別々の場所に残った一致が、偶然の混入を退けた。
小坂に死者との関係はない。
あるのは、国が切り離して市場へ流した物と関係性だけだった。
ねむは第四種の運用要領を開いた。
「死亡者でも、異議申立人を親族に指定できます」
「本人が生前に指定していればな」
「指定欄が作られたのは三年前です。この人が死亡した時には欄自体がありません」
制度がなかった時代の死者に、制度を使わなかった責任だけが残っている。
ねむは特例照会を起案した。
元の本が管理局経由で売却された以上、行政過誤として親族を探せるのではないか。
法務の回答は四分で返った。
《換価処分時点で第一種と判定済み。後発の第四種反応について国に予見義務なし》
「予見できなかったので、連絡もしなくてよい」
ねむが読み上げた。
「役所は未来を見ないことで、過去の責任を減らす」
「では、処分しかないんですか」
相崎は栞の端に残る指の形を見た。
異議申立可にすれば、申立人のいない書類が期限まで回覧される。
保留にすれば、関係性は国の棚で期限なく劣化する。
返却先を推定すれば、死者の私的関係を親族へ暴露する。
処分だけが悪いのではない。
他の三つにも、違う種類の無断があった。
返却対象は分割できる。
本は現在の所有者へ。
栞は元の所有者へ。
問題は、元の所有者が五年前に死亡認定されていることだった。
「親族受領は」
ねむが訊いた。
「第四種は本人同意がない限り不可。死者の関係性を相続財産にする規程はない」
「関係者がいても、ですか」
「書式上はいない」
相崎は二枚の決裁書を並べた。
返却可。
処分。
二つの印を同じ案件へ押す。
本の用紙では、印面が紙に湿る音がした。
栞の用紙では、印面がこもった音を紙に残した。
検査官が両者を離すと、革はようやく手袋から剥がれた。
本は閉じた。
ページの間にあった圧痕も消えた。
画面の小坂が、返却品明細を読んだ。
『栞は処分? 俺のじゃないなら構いませんけど、その人の家族には連絡しないんですか』
「できません」
『国が売った物でしょう』
「当課は古書店の苦情窓口ではありません」
『便利ですね。売る時だけ物で、返す時だけ関係になる』
通信が切れた後も、その一文だけが面談記録に残った。
ねむは栞を処分搬送用の封筒へ入れた。
封を閉じる前に、本人照合をもう一度かける。
相崎の端末には、本の返却通知が開いたままだった。
ねむ側の画面は、仕切り板の陰にある。
――照合端末表示――
《第四種媒体・残留生体情報一致》
《元所有者 久住あさひ》
《状態 死亡認定》
《職員名簿近親者照合 一件》
《実妹 久住ねむ/職員番号DLB―三〇六一》
《関連する未決第四種案件 一件》
《第三者受領意思照合を起動しました》
――表示終了――
ねむの右手が、封筒の糊代で止まった。
右耳へ触れようとした左手を、机の下へ戻す。
「処分搬送票」
相崎が手を差し出した。
ねむは画面を閉じてから、印刷された票を渡した。
「関係者なし、で処理します」
「書式上は」
ねむは封筒を処分箱へ入れた。
底へ落ちる音はしなかった。
箱の奥で何かに受け止められたように、途中で消えた。
「焼却確認はいつ出ますか」
ねむが搬送画面を開いた。
《処分区分確定》
《物理処理方法 移管先判断》
《搬送先 非表示》
処分の判子は、破壊方法まで決めていない。
「あとから家族が探したら?」
「帳簿では、もう存在しない」
「帳簿の外なら」
相崎は答えず、処分箱の管理番号を控えた。
昨日までの搬送票には焼却炉番号があった。
今日の票だけは、倉庫を示す英字と数字が途中で伏せられている。
「処分したのに、残すんですか」
「法的に無くなった物は、物理的にどこへ置いても帳簿に出ない」
ねむは搬送取消を試した。
権限不足。
課長承認を求めるボタンも灰色だった。
栞を家族へ返す道は閉じた。
どこへ送られたかを家族が知る道も、同じ決裁で閉じていた。
同じ時刻、相崎の施錠した引出しから、紙が一枚こすれる音がした。
開けると、000001番の白紙ラベルは、赤い異議申立書の上から、ねむの席に近い右端へ移っていた。
地下三階の冷凍保管庫が低く鳴る。
相崎はラベルではなく、処分箱の投入口を見た。
誰も受け取れないと決めた物を、国家がどこへ送るのか。
新人の封筒は、もう見えなかった。




