第2話 片方だけのスニーカー
子供用のスニーカーは、右足だけが濡れていた。
外側には第十二ダンジョン第三層の青い胞子。
内側には、乾いた靴下の繊維。
「洗濯の途中で洞窟へ転送された、という申立てです」
ねむは親から届いた異議書を読み上げた。
「便利だな。洗濯機に探索者資格を与えた覚えはない」
面談室の強化ガラス越しに、五歳の男児の父親が座っていた。
探索者証はB級。
隣の椅子は空いている。
男児本人は児童相談所の職員と別室にいた。
相崎は証拠袋を照明へかざした。
十五センチの靴底には、泥のほかに細い銀色の砂が食い込んでいる。
第三層の昇降路にだけ使われる滑り止め材だった。
「靴だけを分類するなら?」
「第一種です。ただし、所有者本人に立入能力がありません」
ねむは机上に三枚の資料を並べた。
父親の入層記録。
自宅マンションの監視映像。
靴内部から採取した皮膚片の照合票。
父親は土曜の午前二時十四分に一人で入層し、四時三分に出ている。
監視映像では、出発時に大きな登山用バッグを背負っていた。
帰宅時、そのバッグは畳まれている。
「靴だけ持ち込んだ」
父親はガラスの向こうで繰り返した。
『息子の足が悪いんです。右だけ矯正具を入れている。ダンジョンに置けば悪いものを吸うと聞いた。靴を持って行って、祈って、帰った。それだけです』
父親の供述をそのまま採れば、治療まじないのために靴だけを持ち込んだことになる。
違法ではあるが、子供を危険にさらしたわけではない。
ねむが皮膚片の票を相崎へ寄せた。
靴の内側から本人の皮膚が出るのは当然だった。
問題は量ではなく、剥離時刻だった。
排出の三時間前。
「吸われる直前まで履いています」
『家で履いていた』
「青い胞子が中敷きの下にあります。外から付いたなら、そこへは入りません」
父親の口が閉じた。
胞子の位置は、別の経路を示した。
子供はバッグに入れられ、第三層まで運ばれた。
父親は治ることを期待し、不要と判断した右靴を脱がせた。
それなら物証は揃う。
だが、相崎は昇降路の記録を戻した。
入層時の荷重、九十二キロ。
退層時、七十四キロ。
父親の体重は七十四キロだった。
子供と装備を足せば、入層時と合う。
帰りは子供の重さまで消えている。
ねむの指が止まった。
「子供は帰ってきています」
「監視映像の時刻を見ろ」
自宅映像で父親が戻る四時二十二分。
その七分後、画面の端から男児が歩いてくる。
右足を引きずってはいない。
父親は映像を指差した。
『だから、連れて行ってない。あれは家にいた息子です』
反証になっているようで、別の矛盾が増えただけだった。
第三層で不要とされたのは、靴だけではない。
「帰宅した子の本人確認は」
相崎が訊くと、ねむは別室の映像を開いた。
男児は左右の足を床につけ、紙に迷路を描いている。
右の足首には、生まれつきあるはずの手術痕がない。
父親がダンジョンへ連れて行った子供と、戻ってきた子供。
同じ名前で、同じ顔で、欠落だけが違う。
別室の音声を、児童相談所の職員が許可した範囲だけ再生した。
『お父さんの鞄に入ったの?』
『うん』
『怖くなかった?』
『階段で起きた。お父さんが、右の悪いのを置いてくれば、速く走れるって』
紙を擦る音が続く。
『帰りは?』
『帰りは、ぼくが先にお家にいた』
職員が質問を止めた。
男児は「帰った」ではなく、「先にいた」と言った。
帰路の記憶がない。
DNA照合は父母との親子関係を肯定している。
指紋も虹彩も同じだった。
別人や複製という仮説は成立しない。
変わったのは右足と、その二時間だけ。
ねむは左足のスニーカーについて訊いた。
父親は自宅にあると答えた。
児童相談所が押収した左靴の中敷きには、左右同じ矯正具を作るための製造番号がある。
右靴を返却すれば、現在の足だけでなく、欠けた帰路まで戻る可能性があった。
その帰路で何が失われたのか、父親は説明しない。
「第三則の判定主体は父親です」
ねむが言った。
「父親が不要としたのは、矯正靴じゃない。治療の必要な右足、ですか」
「断定はしない」
「でも、返却したら」
靴に定着した「治療前の足」が戻る可能性がある。
男児の足は再び曲がる。
返却しなければ、ダンジョンが作った現在を国家が黙認する。
処分すれば、父親が子供を持ち込んだ証拠も、治療前の身体情報も失われる。
保留だけなら、父親は子供をもう一度連れて行ける。
相崎は父親へ向けてマイクを入れた。
「異議を申し立てますか」
『何にです』
「あなた自身の説明に」
父親がガラスへ顔を近づけた。
『治ったんだ。本人も喜んでる。国に何がわかる』
「国には、だいたい書式しかわかりません」
相崎は赤い用紙を出した。
「だから、本人の聴取を記録に残す」
異議申立可。
返却の可否を、父親の希望だけで確定させない。
同時に、児童相談所と警察へ、未成年者入層の疑いを通報する。
相崎は異議申立可と通報連携の二欄へ続けて押した。
決裁情報が連携された瞬間、ガラス向こうの父親の探索者証が失効色へ変わった。
別室では、職員が男児へ今夜は家へ帰れないと説明していた。
男児は迷路の紙を裏返し、左足の靴は誰が持ってくるのかと訊いた。
異議を申し立てる権利は残った。
家へ帰る権利は、ひとまず止まった。
父親はガラスを叩き、決裁の取消しを要求した。
警備員が立つと、男児のいる別室まで振動が届いた。
男児は迷路の鉛筆を止めたが、父親の方は見なかった。
児童相談所の職員が左靴を持ってくる。
男児はそれを履かず、机の下へ置いた。
右だけ速く走れる足で、左右揃わない靴を持って保護施設へ行く。
返却審査が終わるまで、矯正具の再製作も停止される。
現在の足を「治療後」と認めれば、ダンジョン利用を追認することになるからだった。
面談室を出たねむは、赤い控えを相崎の引出しへしまおうとした。
「一番下」
「鍵が掛かっています」
相崎が自分の鍵で開ける。
昨日、書類束の下へ入れた000001番のラベルが、束の一番上に載っていた。
ねむは触れずに、身を屈めた。
「昨日と違う場所ですよね」
「書類は残業すると動く」
「時間外手当は」
「ラベルには出ない」
相崎は引出しの開閉履歴を確認した。
前日の施錠以後、解錠記録は今の一回だけ。
それでも内部の重量センサーは、午前十時四十六分に一グラム未満の移動を記録していた。
ねむが面談室で、「本人以外が取り戻したがる場合」を検索した時刻だった。
冷凍保管庫の低周波音で、机上の鍵が震えた。
相崎は白紙ラベルを裏返した。
紙の裏に、赤い異議申立書の繊維が一本だけ付いていた。




