第1話 心臓は、誰のものか
タッパーの中で、心臓が脈を打っていた。
透明な蓋が、拍動のたびに曇る。
久住ねむは両手で容器を持ったまま、机の空いている場所を探していた。
「午前便です。書類の山と生体器官、どちらを床に置きますか」
「書類。落としても死なない」
「省内規程では逆です」
初出勤から十一分で規程を盾にした新人は、相崎のキーボードを二センチ押しやり、そこへ容器を置いた。
地下三階の奥で、冷凍保管庫が低く鳴っている。
相崎は蓋に貼られた黄色い検疫票を見た。
「――で、これは第何種?」
「第二種。身体的遺失物です。所有者は葛西修一、三十四歳。五年前の第十二ダンジョン事故で臨床死亡、その後に蘇生。現在も生存しています」
生存、と書かれた行に、心臓の影が重なっていた。
ねむが差し出した携帯端末には、今朝撮影された葛西の胸部画像が出ていた。
あるべき場所に、心臓はない。
太い血管は空洞の中央で途切れ、その先だけが造影剤の光で循環を続けている。
「画像の取り違えは」
「医療機関を三つ替えて再照会しました。全部同じです」
「容器の方は」
「DNA、古い手術痕、血液型が一致。拍動間隔も葛西さんの末梢脈と同期しています」
相崎は容器の側面に指を当てた。
肉の向こうから、誰かの輪郭が指先へ押し返してくる。
暗い場所。
数を数える声。
そこまでで手を離した。
新人に説明する必要のない身体上の不具合は、服務規程上、申告欄がない。
葛西の返却申請は、昨夜二十三時十四分に出ていた。
申請理由は七文字だった。
――自分の物だから。
「本人面談を繋ぎます」
ねむが卓上画面を起こすと、作業服姿の男が現れた。
葛西の胸元には、物流会社の名札が裏返して留められている。
『それ、本物なんでしょうね』
「照合上は」
『なら返してください。五年間、検診のたびに機械が壊れたことにされる。今月から会社にも止められました。医者が安全を証明するまで、運転させないって』
画面の外から、子供の声がした。
葛西は一度だけそちらを見て、椅子を引き寄せた。
『娘が、俺の胸に耳を当てても何も聞こえないって言うんです。説明できますか。あんたらの書式で』
ねむの指が、右耳に触れた。
相崎は返却影響評価書を開いた。
五年前の非公開回収記録が一行だけ付いている。
《同一生体器官、事故現場にて回収。統合試験中止。対象者の死亡時刻が再確定する危険あり》
「以前にも出ています」
ねむが画面を覗き込んだ。
「事故直後。一回目は暫定対策室が回収し、再封印。今回が二回目」
『そんな話は聞いてない』
葛西の声で、画面のマイク表示が赤く振り切れた。
一つ目の仮説は単純だった。
心臓は事故で失われ、本人が求めたから排出された。
返せば欠落が埋まる。
ねむは医療照会の欄を指で拡大した。
「でも、本人の申請より四時間早く排出されています。第二則なら順序が逆です」
葛西が欲しがったから出た、では足りない。
誰かが葛西へ返したがった。
第三則。
判定主体は、本人とは限らない。
「ご家族の申請は」
『してません。娘にはダンジョンのことも話してない』
「勤務先の健診照会が昨日、管理局へ届いています」
ねむが別のログを出した。
会社は葛西の無脈状態を就労不能と判断し、国へ正常性の証明を求めていた。
個人ではなく、組織が「心臓のある葛西」を必要とした可能性がある。
だが、それも排出の二時間後だった。
時刻は、二つの説明をどちらも退けた。
「一部だけ返すことはできませんか」
ねむが検疫票の分割欄を開いた。
弁の一片、血液、心筋組織。
身体的遺失物には、検査用の部分返却手続がある。
相崎は許可し、検疫担当が容器の採取口へ針を入れた。
針先が心筋へ届く。
一ミリ角の組織が切り取られた。
次の拍動で、欠けた場所は塞がった。
採取管へ入った組織は透明になり、数秒後には生理食塩水だけが残った。
端末には《分割不能》。
その直後、葛西の胸部画像で一本だけ現れていた細い血管が消えた。
検疫担当が針を抜くと、血管は戻った。
「切り分けても、本人側の現在と同期します」
ねむは分割申請を閉じた。
安全な部分だけ返すという第五の選択肢も、観測で消えた。
残ったのは、五年前の非公開記録と、今も続く拍動だけだった。
「返却すれば、どうなります」
ねむが訊いた。
「統合時点で矛盾が一つに整理される。心臓のある現在が採用されるとは限らない」
「五年前に心臓を失って死んだ方が、正しい記録になる」
葛西が画面越しに机を叩いた。
『可能性で人の物を盗るのか』
「保留も無償ではありません」
相崎は就労通知を見た。
決裁が出るまで、葛西の大型車両運転資格は停止される。
会社の休業補償は三十日。
それを過ぎれば配置転換か退職だ。
返却して、五年前の死亡を確定させるか。
保留して、現在の生活を削るか。
処分して、本人の身体を国家の都合で消すか。
異議申立可として、危険の立証を本人へ背負わせるか。
相崎は決裁印を取り、印面を親指で一度撫でた。
「第二種、保留」
印面が紙に乾いた音を落とした。
画面の中で、葛西が名札をむしり取った。
『三十日後も同じ返事なら、ここへ行きます』
遺失物課の所在地は非公開です、とねむが告げる前に通信は切れた。
決裁通知が送信される。
同時に、葛西の就労資格欄が緑から灰色へ変わった。
ねむは休業補償の仮給付を申請した。
回答は《対象外》。
理由は、葛西が身体機能を失ったのではなく、失った身体機能によって生存しているため。
「日本語ですか、これ」
「支給しない時の日本語は、だいたい長い」
ねむは不服申立ての様式を葛西へ送った。
新しい申立てには、心臓を返してほしい理由を、もう一度本人が書かなければならない。
予測ではない。
保留によって失われた、今日最初の物だった。
「冷凍庫へ。再排出監視を付ける」
ねむが容器を抱え上げた。
「相崎さん、コーヒー、砂糖二本ですよね」
心臓とは無関係な一言だった。
相崎は彼女を見た。
短い髪。
右耳へ行きかけて、途中で止まった指。
「新人研修に、他人の糖分摂取量まで載るようになったのか」
「載っていません。確認しただけです」
ねむが保管庫へ向かう。
その背後で、五年間使われていなかった旧式ラベルプリンターが動いた。
一枚だけ、白い紙を吐き出す。
品目欄も、所有者欄も空白だった。
通し番号には、000001。
紙はまだ温かい。
印字履歴には午前九時十二分とある。
ねむの職員証が、この部屋で初めて認証された時刻から、ちょうど四分後だった。
相崎は履歴を閉じ、ラベルを一番下の引出しへ入れた。
冷凍保管庫の扉の向こうで、二つあるはずのない拍動が、低周波音に混じっていた。




