第27話 返却拒否
返却申請の欄に、「返さないでください」と三度書かれていた。
一度目は黒いボールペン。
二度目は青い万年筆。
三度目は、窓口で貸した鉛筆だった。
筆圧も日付も異なる。
同じ申請人が、三か月にわたり意思を変えていない証拠だった。
面談室の机には、乳白色の小さな記憶容器が置かれている。
第二種。
家庭内の暴力被害に関する心的外傷記憶。
申請人は保護施設から、支援員同席で来庁していた。
相崎は衝立のこちら側に座り、本人の顔を見ない配置を選んだ。
「確認します」
ねむが読み上げる。
「記憶の返却を希望しない。将来も、治療目的を含め、再統合へ同意しない。物理的な処分を希望する」
「はい」
衝立の向こうから返事があった。
「処分すると、事件当時の細部を思い出す手段が失われます。民事手続や補償審査で、不利益が生じる可能性があります」
「説明を受けました」
「異議申立ての期限を待つこともできます」
「待っている間、あの人が返せと言えるんですよね」
机上の別書類は、加害者側代理人から届いた返却要請だった。
記憶に自分へ有利な会話が含まれるとして、証拠開示を求めている。
ダンジョンの第二則は、所有者の希望だけで動かなかった。
第三則。
本人ではない者が「もう一度必要だ」と判断した結果、処分待ちだった記憶が排出口へ戻った。
「裁判所からの提出命令はありません」
相崎が言った。
「現時点で、代理人の要求に強制力はない」
「現時点では」
衝立の向こうで、鉛筆が机へ置かれた。
「だから、現時点でなくしてください」
記憶容器の封緘状態を、ねむが確認する。
所有者の生体署名。
担当医の危険評価。
支援員が保管していた事件直後の供述記録。
三つは一致していた。
返却すれば記憶の正確性が上がる、という保証はない。
再統合時の現在感覚が、過去の出来事を作り替える例もある。
「別の問題があります」
ねむが容器の底を示した。
本来は処分完了後に貼るはずの移送ラベルが、すでに付いている。
《B3―17/恐怖反応・高精度》。
決裁前に、商品区分まで決められていた。
「これは何ですか」
申請人が訊いた。
相崎はラベルを伏せなかった。
「管理局内の不正が疑われる記号です」
「処分しても、なくならないんですか」
「通常手順へ回せば、なくならない可能性がある」
相崎は処分工程を変更した。
委託搬送を使わない。
容器の鑑定値と本人意思だけを外部監査へ保全し、内容は複製しない。
庁内の直結溶解槽へ、本人と支援員が遠隔映像で立ち会う。
処理前後の重量を記録し、残留反応が測定限界未満になるまで封鎖を解かない。
「証拠保全のため、内容の複製を求める部署が出ます」
ねむが言った。
「拒否します」
申請人の答えは三度目までと同じだった。
「拒否した記録も残ります。それで不利になる場合があります」
「残してください。忘れたんじゃなくて、返却を拒んだと」
相崎は処分書へ、本人意思確認の時刻を分単位で記載した。
返却して、本人の現在を事件当時へ戻すか。
保留して、加害者側の要求が届き続ける状態に置くか。
処分して、将来の立証手段を減らすか。
異議申立可として、選び終えた人に選び直す負担を戻すか。
四つを読み上げたあと、相崎は希望をもう一度確認した。
「処分してください」
申請人は言った。
「私が要らないと決めたことまで、あの人に決めさせないでください」
相崎は印面へ親指を当てた。
指が一度止まり、離れた。
印面がこもった音を紙に残した。
処理室の監視画面で、乳白色の容器が固定具へ収まる。
溶解が始まると、内容物の反応値が段階的に下がった。
残留反応が三割を切ったところで、支援員の端末に通知が届いた。
民事手続の証拠保全照会。
加害者側が、記憶の再統合検査を前提に鑑定日を申し立てていた。
記憶を処分すれば、その鑑定は実施不能になる。
裁判所の判断ではない。
それでも、申請人が主要な検査資料を自ら失わせたと主張される余地は残る。
続いて、犯罪被害給付の追加審査も《資料変更》で停止した。
現在支給されている仮給付は続く。
治療費の上乗せ分は、再審査が終わるまで振り込まれない。
支援員が停止ボタンの位置を確認した。
今なら処理を止められる。
元の記憶へ戻せる保証はないが、鑑定可能な反応値は残る。
「通知を読みますか」
ねむが衝立越しに訊いた。
「金額だけ」
支援員が月額を読み上げた。
申請人は一度だけ聞き返した。
家賃ではなく、通院回数に換算した。
「止めますか」
相崎が訊いた。
「止めません」
申請人は停止による不利益確認へ署名した。
「払ってもらうために、あの人の言う通り思い出すのは嫌です」
相崎は停止ボタンから手を離した。
反応値は二割から一割へ下がった。
給付審査の再開予定日は空白のまま残った。
申請人は画面を見続けた。
支援員も画面を切らなかった。
反応値がゼロになったあと、ねむが移送ラベルだけを回収した。
ラベルの裏には、複製された《相崎》の印影があった。
この案件が通常工程へ入っていれば、処分書はすでに用意されていた。
申請人が帰ったあとも、相崎は面談室の衝立を片づけなかった。
冷凍保管庫の低周波音が、その薄い板を長く震わせていた。




