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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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第26話 課長の若い頃

課長の癌は、診断書より先に一枚の写真から見つかった。


若い課長が、開局前の仮設受付で笑っている。


背後の白板には二〇二一年四月と書かれ、机には旧式の決裁書が積まれていた。


写真の隣にある診断書の日付は、同じ年の六月。


病名欄は膵癌。


告知時点で、手術適応外だった。


「第一種の写真と診断書、それに第二種の定着反応」


ねむが検疫票を置いた。


「紙へ触れると、痛覚記憶が再生されます。防護手袋を外さないでください」


写真と診断書は、課長室の施錠棚から消え、翌朝、排出口に並んでいた。


当人が不要としたものが吸われ、もう一度必要とされたものが吐かれる。


「俺は必要だと言ってない」


課長は面談室の椅子へ浅く腰掛けた。


「第三則です」


ねむが答えた。


「監査が必要とした可能性があります」


「監査はついに人事だけじゃなく、病歴まで掘るのか」


「写真の背景にある書類を掘ります」


ねむは白板の横を拡大した。


《疼痛記憶・一時分離試験》。


被験者欄には、課長の職員番号がある。


「制度が始まる前に、自分の痛みを預けた」


相崎が言った。


「始まったあとだ。正式運用の前」


「行政には便利な時期ですね」


「責任だけは正式で、規則だけは暫定になる」


課長は診断書を見た。


「鎮痛剤が効かなかった。仕事を続けるために、痛みの記憶だけ分離した。痛みそのものが消えたわけじゃない。脳が次の日へ持ち越さなくなった」


一日ごとに、痛みの経験が切れる。


身体は悪化を知らせても、昨日との比較が残らない。


課長は五年間、診断書の余命欄を更新しないまま勤務していた。


「返却すれば」


ねむが訊いた。


「五年分が一度に戻るかもしれん」


「医学的危険は」


「発作、意識障害。あとは、余命が実感になる」


課長は最後の一語だけ、書類を読むように言った。


相崎が写真へ手袋越しに触れる。


若い課長の輪郭。


点滴台。


仮設受付の床へ、緑のテープで引かれた搬送線。


線の先には《B3―17》と書かれた扉があった。


「当時は何の部屋です」


「第三地下区画の十七号室。安定化待機庫だ」


「施設課は、該当なしと回答しています」


「二〇二三年の改修で図面から消した。壁は残ってる」


「誰の指示で」


「俺が承認した」


課長は逃げるような間を置かなかった。


「初期制度では、処分は焼却だけじゃなかった。研究利用できる第二種と第三種を、一時保管へ回す例外を作った。国家機関の治療研究と、探索者訓練に使う名目だ」


「同意は」


「包括同意で足りるとした」


「何をされるか知らせない同意です」


「そうだ」


課長は写真の自分を指した。


「最初の受益者が俺だ。痛みを預けて席に残った。だから例外を止める側に回れなかった」


ねむが診断書の裏面を斜光撮影した。


朱肉の跡に見えるものがある。


《相崎》の印影。


右下に、複製版特有の欠け。


「この申請にも、白紙決裁書が使われています」


「相崎が配属される前の写真でしょう」


「印影だけ、後から足されています」


課長は印を見ても、驚く手順を省いた。


「複製を知っていたんですね」


ねむが言った。


「疑ったのは三年前。確かめたのは去年」


「なぜ止めなかった」


「止める権限を持つ部署が、使っていた」


「内部告発は」


「証拠が倉庫ごと消える。だから残した」


「残している間にも、売られました」


「そうだ」


課長は同じ答えを繰り返した。


正当化もしなかった。


写真の若い男は、現在の課長より頬が厚い。


その肩越しに、M04の腕章を付けた作業員が写っている。


五年前から、民間委託先は仮設受付の中へ入っていた。


「M04アーカイブズの前身ですか」


「管理局の保管設備を納入した会社だ。運用委託へ広がり、二次利用の仲介まで取った」


「ハルの配信事務所へ売った」


「そこまでの伝票は見ていない」


「知らないことは、していないことになりません」


課長は脇腹へ当てていた手を膝へ戻した。


「分かってる」


ねむは外部監査への医療記録提供同意書を課長へ向けた。


写真だけを証拠にすれば、課長の病名は伏せられる。


痛覚記憶の商品化まで照合するなら、診断時刻と治療経過を出す必要がある。


提供後は、課長自身も監査記録を消せない。


人事の就業適性審査にも同じ診断書が回る。


「匿名化は」


課長が訊いた。


「受益者と承認者が同一人物だったことを隠します」


ねむは答えた。


課長は余命欄を隠していた親指を離した。


病名も日付も見える状態で署名する。


送信と同時に、課長の人事画面へ《就業適性・要再審査》が付いた。


監査が終わる前に、課長席を失う可能性が生じた。


課長は取消猶予の表示を閉じた。


自分の病歴を守れば、制度から利益を受けた事実も守られる。


その順番を、今回は選ばなかった。


本人希望は保留だった。


返却すれば、五年分の痛みが現在の身体へ統合される。


処分すれば、課長が制度の例外から利益を得た証拠まで失われる。


相崎は診断書と写真を別々の証拠袋へ入れた。


痛覚記憶は複製鑑定を禁じ、外部医師の立会いなしに開封しない。


「第二種を含む複合事案。本人の医療同意が整うまで保留」


相崎は保留欄へ押した。


課長は保留書を受け取り、余命欄を親指で隠した。


「白紙を保留にしても、誰かが後から品目を書く」


「だから監査を始めました」


「監査の欄も、上から消せる」


課長は椅子を引いた。


「あんたも、あの白紙を、いつか押すことになる」


相崎の机の引き出しにある000001番へ触れた言葉だった。


「その前に、十七号室を開けろ」


「鍵は」


「俺がなくしたことになってる」


課長が面談室を出たあと、診断書の痛覚反応は弱くなった。


代わりに、庁内施設台帳から《第三地下区画・十七号室》の行が消えた。

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