第21話 真鍋の証言
真鍋の業務日誌は、事故当日の一頁だけを失っていた。
黒い耐水表紙の背から、紙を切り取った白い毛羽が覗いている。
証拠品トレイに置かれたのは日誌そのものではなく、複写式だった五年前の控えだ。
青い文字が薄れ、下半分は斜めに裂けていた。
「第一種。所有者は真鍋詩織さんです」
ねむが読取台の蓋を下ろした。
「第十二ダンジョンの旧装備庫から、昨日排出されました。紙とインクの年代は一致。後から作った複製ではありません」
壁際の真鍋は座らなかった。
深層帰りのコートには、乾き切らない白い砂が残っている。
「返して。原本は事故のあと、管理局に提出した」
「原本の登録がありません」
ねむは画面を回した。
画面上部には、相崎の立会認証と《利益相反当事者・閲覧のみ》の帯が出ている。
提出物管理簿には、事故当日の真鍋の業務日誌だけが存在しない。
前日と翌日の頁は画像化されているのに、その間には欠番を示す赤い横線が一本ある。
「だから来たの」
真鍋は裂けた控えを顎で示した。
「なくしたことを証明するために、なくした物が戻ってきた。ここの窓口には向いてるでしょう」
相崎は返却申請書を脇へ寄せ、控えの時刻欄を見た。
十七時四十二分、帰還予定変更。
十七時四十七分、隊員一名が暫定受付へ立ち寄り。
十七時五十一分、申請受理。
その先は裂けていた。
申請品目の欄も、処理結果の欄も残っていない。
読めるのは、余白に真鍋が書いた一行だけだった。
――相崎悠人の保護を目的とする申請。本人意思、確認済み。
複写紙の裂け目は、定規や刃物で切った形ではない。
上から強く引かれ、申請品目に近い側だけが持ち去られている。
ねむは繊維の向きを撮影し、欠けた面積から元の大きさを計算した。
失われた部分は一枚分。
複数頁を隠した痕跡はなかった。
「申請書全部の控えではなく、受付を見た人の記録、その一端ですね」
「それ以上には扱わない」
相崎は鑑定票の証拠名称を書き換えた。
《申請内容の写し》ではなく、《申請行為を示す業務日誌控え》。
名称を一つ誤れば、分からない品目まで分かったことになる。
「本人というのは」
ねむが訊いた。
真鍋は相崎を見た。
「久住あさひ」
冷凍保管庫の低周波音が、読取台の薄いガラスを震わせた。
「何を申請したんですか」
「この控えに残っているのは、そこまでよ」
「覚えている範囲で証言してください」
「証言はできる。証明は、まだできない」
真鍋は短く区切った。
「あさひは事故の前に申請を出した。相崎を守るためだと言った。私は立ち会った。でも、申請した品目は聞いていない」
ねむの指が右耳へ向かい、途中で止まった。
「申請書を見ていないんですか」
「受付台に伏せて置かれた。署名だけ確認した。探索者同士でも、他人の遺失物を覗く権限はない」
「事故直前なのに」
「事故直前だと知っていたら、全員、地上に残ってる」
「申請後、あさひさんの様子は」
「手袋を着け直した。潜行順を一つ後ろへ変えた。それだけ」
「相崎さんへ何か伝えた?」
「業務日誌にないことは、今は証言しない」
真鍋は答えを拒んだ。
記憶があることと、証拠として言えることを分けている。
相崎は面談記録へ《供述留保》と入力した。
ねむも追及を止め、時刻の検証へ戻った。
相崎は控えを透明シート越しに押さえた。
紙に触れた瞬間、持ち主の輪郭が薄く立った。
時計を見る横顔。
濡れた手袋。
受付台の向こうにいる、肩幅の広い男。
輪郭はそこで途切れた。
「受付担当は」
「名札までは見ていない。ただ、創設準備室から来た職員だった」
真鍋の答えと同時に、ねむが別画面を開いた。
暫定受付の電源記録では、十七時三十分に端末が停止している。
申請が受理された十七時五十一分には、動いていなかったことになっていた。
「日誌の時刻が誤っている可能性は」
「私の潜行時計は本庁時刻と自動同期する。事故調査でも二秒以内だった」
真鍋は左手首を上げた。
今も同型の潜行時計が巻かれている。
ねむが複写紙を拡大した。
十七時五十一分の横に、文字ではない細い圧痕がある。
鉛筆の芯を横に寝かせると、消えた筆圧が浮いた。
《処二/B3―17/M04》
相崎はスーツの内ポケットから、焼け焦げたメモを取り出した。
焼却済みの腕時計と一緒に処分箱から見つけ、証拠袋へ移していた紙片だ。
残っている英数字列は、三つとも一致した。
「偶然で一致する桁数ではありません」
ねむが言った。
「申請書は受理された直後、処分品の移送経路へ載せられた?」
「申請品が処分されたとは限らない」
相崎は控えから手を離した。
「この記号が当時から移送コードだった、という証明もない」
「反証は?」
「五年前のコード表を探す」
「もう照会しました。保存期間満了で廃棄済みです」
画面には廃棄承認日が出ていた。
事故からちょうど三年後。
承認者欄だけが空白だった。
ねむは端末停止の原ログも調べた。
十七時三十分の停止記録は、事故から四日後に追加されている。
作成時刻と出来事の時刻が一致しない。
追記した職員番号は共通保守アカウントで、現在は使用停止。
「受付が動いていなかったのではなく、動いていなかったことにした可能性があります」
「逆もある」
相崎は言った。
「真鍋の日誌に合わせ、誰かが後から停止記録をずらした可能性」
「日誌が公になったのは今日です」
「原本を提出した相手は見ている」
真鍋は腕を組み直した。
「提出先は事故調査班。受領印を押したのは、管理局の創設準備室よ」
受領者名は残っていない。
日誌の原本と端末原ログを消せる位置に、同じ部署がいた。
それでも、誰が消したかまでは届かなかった。
真鍋が鼻から息を出した。
「人の記憶は信用しないのに、空白の承認欄は信用するのね」
「空白は供述を変えません」
「書き足される余地は残す」
相崎は返却書を引き寄せた。
控えは真鍋の所有物であり、原本ではない。
ただし、画像、紙質、筆圧、同期時刻の鑑定記録は証拠保全サーバへ複製する。
返却によって持ち主の手元へ戻る一方、真鍋が紛失、破棄、改変すれば、一次物証は失われる。
保留すれば、管理局はまた当事者の記録を囲い込む。
真鍋は原物寄託ではなく、第三者機関での保管を提案した。
管理局、真鍋、外部公証庫の三者が同じ画像の照合値を持つ。
どれか一者が改変しても、残る二者で分かる。
「信用していない相手と証拠を共有するのは、合理的です」
ねむが言った。
「仲が良い必要はない」
真鍋は相崎へ返した。
一人の善意へ預けない方式が、その場で採用された。
「写しの返却を認める。鑑定済みデータは監査予備資料として保全」
「監査は始まっていないでしょう」
ねむが言った。
「予備は、始まる前にしか作れない」
相崎は返却欄へ押した。
真鍋は受領欄へ署名し、日誌の控えを防水袋へ入れた。
扉の前まで行ってから、足を止める。
「あの子、あなたを守りたかったのよ」
振り返った真鍋の視線は、相崎の机上ではなく、その一番下の引き出しへ向いていた。
「守られる側だったあなたには、まだ分からないでしょうけど」
扉が閉まったあと、ねむは廃棄承認日の画面を消さなかった。
B3―17。
その番号に該当する保管場所は、現行の庁舎図面にはなかった。




