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ダンジョン遺失物課――その心臓を返せば、持ち主は五年前に死んだことになる  作者: 他力本願寺


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20/33

第20話 白紙の保留決裁書

九十六枚の白紙すべてに、相崎の判子があった。


品目欄は空。


所有者欄も、排出日時も、申請理由も空。


右下の保留決裁欄だけに、古印体の「相崎」が赤く並んでいる。


地下四階、第二文書保管庫。


定期監査で開けた施錠引き出しの中から、束は見つかった。


引き出しの電子記録では、五年間一度も開いていない。


それなのに紙の上には、乾ききっていない朱色があった。


「触らないでください」


ねむが相崎の手を止めた。


透明手袋を二組取り、片方を渡す。


昨日から事故関連記録へのアクセスは停止されている。


この束はまだ事故関連と登録されていないため、彼女の画面にも表示されていた。


「枚数、九十六」


ねむが数取器を押した。


「すべて旧式の保留決裁書。用紙番号は連番ではありません。二〇二一年から二〇二三年まで、少なくとも六回の印刷ロットが混在しています」


「同じ引き出しへ、三年かけて足した?」


「開閉記録では不可能です」


相崎は引き出しの内側を照らした。


蝶番、鍵受け、背板。


隠し口はない。


底に黒い砂が薄く溜まっている。


ダンジョン由来のケイ酸塩だった。


紙束は扉から入れられたのではない。


第一則か第二則によって、閉じた保管庫内へ直接移動した可能性がある。


「遺失物としての排出ログは」


「ありません。保管庫の重量センサーは今朝九時十三分に四・二キロ増えています」


「その時刻、俺たちは」


「三階にいました。入退室記録も一致しています」


白紙書類は、誰もいない施錠庫へ現れた。


六つの印刷ロットが混じる紙束の側面に、結束帯の圧痕が一続きで残っていた。


一枚目と最後の一枚からは、同じ青い梱包繊維と、冷蔵搬送箱用の防黴剤が出た。


別々の年度に保管した紙ではない。


今朝まで別の場所で九十六枚を束ね、閉じた引き出しを送り先に使った形だった。


ねむは最上部の一枚を撮影し、印影比較へ送った。


基準に使うのは、相崎が前日に押した通常の保留印。


輪郭は一致。


古印体の欠けも、外周の小さな傷も一致する。


自動判定は〈同一印章〉を出した。


「主任が押したものですか」


ねむが訊いた。


相崎は判子を手袋越しに持った。


黒水牛の側面に、備品管理番号が刻まれている。


五年前から同じ印を使っている。


「印影だけでは、押した人間まで分からない」


重ね合わせると、九十六の印影は角度も押圧も一致した。


赤色顔料は指定朱肉と同じで、紙の裏には押圧痕がある。


プリンターではない。


さらに、印影の左下に髪より細い白い繊維が、同じ曲がり方で写り込んでいた。


本物を繰り返し押せば剥がれる繊維まで固定されている。


相崎は、原印を一度型取りした複製印が固定器具で使われた、と監査票へ記載した。


購買記録には一件だけ、《書類画像安定化治具》という名目の機器があった。


納入者は処分品搬送の委託先。


仕様欄には、円形印面を一定角度で保持し、同じ圧力を反復できるとある。


納入先の部屋番号は削除され、受領印には課長印の複製と同じ傾きが残っていた。


合法な備品を横流しへ使ったのか、最初から複製用に買ったのか。


注文書だけでは、そこまで証明できない。


「複製元になった一枚を探します」


ねむは相崎の過去の決裁書を年代順に呼び出した。


二〇二一年の通常案件、四百十二件。


事故関連は権限停止で開けない。


一般案件の印影だけを比較し、白い繊維が最初に現れた日を絞る。


相崎の正式異動から二日目、午後四時二十二分。


第四種の保留決裁書。


品目と所有者は閲覧制限。


その印影には、左下に同じ白い繊維があった。


翌日の決裁では消えている。


「この印影から複製したなら、異動二日目の夕方から三日目の朝まで」


ねむが言った。


「その一枚を撮影するか、印面そのものから型を取った」


「当時の保管担当は」


「職員表を照会します」


画面に五年前の遺失物課配置が出た。


課長の名はある。


相崎の名も、決裁担当としてある。


ほかに三名。


二名は異動、一名は退職。


夜間入室記録は欠落していた。


「欠落?」


「保存期限は七年です。まだ消えないはずです」


「消した記録は、保存期限を守らない」


相崎は束の側面を見た。


用紙の間に、白紙ではないものが一枚だけ挟まっている。


細長い搬送票だった。


表面は熱で黒くなり、読めるのは一行。


〈R4/B7-12〉


焼却済みの腕時計と一緒に処分箱から見つかった紙片と同じコード。


下の七桁も一致した。


「偶然ではありません」


ねむが二つの画像を並べた。


「この白紙書類は、第4再資源化保管区を経由した」


「まだR4が何を指すか、確定していない」


「時計の油、旧称、二枚の搬送票。三点です」


「仮説として記録しろ」


ねむは〈外部倉庫経由の疑い〉と入力した。


断定に変えなかった。


束の紙には、保留書式だけでなく、裏面へ薄い圧痕があった。


別の用紙を重ねて記入した跡。


斜光を当てると、管理番号が浮かぶ。


六桁。


同じ番号は一つもない。


相崎が十件を抽出し、通常システムへ照会した。


全件が〈処分完了〉。


白紙の表面は保留。


背後の記録では処分。


一枚の複製印が、相反する二つの決裁に使われている。


「保留書式を見せて、処分経路へ送った?」


ねむの語尾が短くなった。


「所有者へは保留通知。内部では処分済みに変更。現物はR4へ」


「仮説だ」


「時計はR4から戻った」


「時計一個では、九十六件を証明しない」


「だから九十六件、調べます」


ねむは一枚ずつ圧痕番号を読み取り始めた。


二十件目で、該当なしが出た。


二十一件目も。


番号は連続している。


消された案件群だった。


二十八件目に、第五種の記録が残っていた。


品目欄は閲覧制限。


処分承認者は相崎。


書面上の決裁日は、相崎が事故後の入院記録上、病棟から出ていない日だった。


「この日は、押せません」


ねむが病棟の入退室証明を表示した。


「外出許可なし。職員証も未発行です」


相崎が遺失物課へ正式異動したのは、その翌週だった。


それより前の日付が印字された書類に、後から作られた相崎印がある。


紙の製造ロットは、相崎の異動後。


電子台帳への登録も、異動二日目の夜以降だった。


複製印を先に使ったのではない。


決裁日を事故直後へ遡らせ、入院中の相崎が押したように偽装していた。


「誰かが、先に印影を用意していた」


「決裁者になると決まった時点で」


「利益相反も知った上で」


ねむがそこまで言い、口を閉じた。


何の案件で利益相反があったかは、この束からは分からない。


相崎は二十八件目を別の証拠袋へ入れた。


「課長を呼べ」


課長は十分後、監査担当二名を連れて来た。


白紙の束を見ても、驚いた言葉は出さない。


搬送票のコードで足が止まった。


「これを、どこで」


「束の中です」


ねむが答えた。


「焼却済みの腕時計からも同じコードが出ました」


「外部へ送るな」


課長は即座に言った。


「通常監査系統へ登録すれば、上からも見える」


「隠すんですか」


「保全先を変える。局内監査だけじゃなく、外部監査用の封印を使う。俺も閲覧者から外せ」


課長は自分の職員証を机へ置いた。


「この束に、課長が知っているものがありますか」


「あるかもしれん」


「どれです」


「今ここで俺が選べば、俺に都合の悪い紙を抜いたと疑われる。だから触らん」


課長は手袋へ伸ばしかけた手を戻し、棚から二歩離れた。


監査担当へ、棚全体の封鎖を指示する。


「九十六件、全部止めるぞ」


「止める?」


ねむが訊いた。


「過去の処分決裁へ緊急異議を付ける。現物が残っていれば移動停止。返却予定が入っている関連案件も、真正確認まで凍結だ」


過去の不正を調べるため、現在の正規案件まで止まる。


対象一覧が端末へ出た。


四十三件は既に終了。


二十七件は所有者死亡。


十三件は記録消失。


残る十三件のうち、三件に返却予定が入っていた。


一件は翌朝、視力の一部を本人へ統合する予定。


一件は週末、失われた職能記憶を返す予定。


一件は離婚調停中の関係性記録だった。


「証拠保全をすれば、この三人の返却が止まります」


ねむが言った。


「止めなければ、不正な印影を正しいものとして扱う」


相崎は三件の予定を開いた。


視力の申請者は、復職日を返却翌日に設定している。


職能記憶の申請者は、再雇用試験を予約済み。


関係性の当事者は、返却結果を前提に親権調停を進めている。


一枚の異議申立てで、三人の予定が崩れる。


九十六件をそのままにすれば、何人の過去が複製印で動いたか分からない。


「緊急停止」


相崎は言った。


ねむが三件へ延期通知を送る。


視力の申請者から、すぐ着信が入った。


「明日、見えるようになるって」


男の声が端末から漏れた。


「そう聞いて会社にも話したんです。どうして今日になって」


ねむは制度不正の可能性と、再審査期限が未定であることを伝えた。


「今日決まったのは、延期だけです。再開日は決まっていません」


相手は途中で通話を切った。


復職先からの着信が、その直後に申請者の端末へ入ったことだけが連携記録に残った。


保全の最初の損害だった。


二件目は、職能記憶を待つ女からだった。


『再雇用試験は八日後です。次の募集では年齢条件を越えます』


失われたのは溶接技能の手順記憶。


返却が済めば実技試験を受けられるという医師の見込み書があり、訓練会社の席も押さえていた。


「再審査前の統合は認められません」


ねむが言う。


『不正をした人の判子でしょう。どうして、私の仕事が止まるんですか』


答えは説明できても、八日を増やす欄はなかった。


三件目の関係性記録では、家裁から期日変更の通知が届いた。


当事者の男が音声回線へ入り、返却結果を待つよう求めたのは裁判所だと繰り返した。


『子どもと会えるかどうかを、あの記録で決めると言われた。今さら記録が怪しいなら、これまで会わせなかった判断は何だったんです』


再審査中、試行面会の回数は増えない。


相手方と子どもの安全評価も、白紙決裁書の真正とは別に続く。


一つを急げば他方の審査を飛ばすため、ねむは期日の延期しか通知できなかった。


三人の予定は、同じ複製印で止まった。


相崎は束の代表一枚を、異議申立可の書式へ載せた。


通常、過去の決裁に異議を付けるのは所有者か遺族だ。


今回は決裁印の名義人自身が、印影の真正へ異議を申し立てる。


親指で印面を一度撫でた。


朱肉へ押す。


紙へ下ろし、離し、もう一度下ろした。


印面が紙を二度、叩いた。


二つの赤い印影が、白紙の保留印の横へ並んだ。


ねむは代表紙を外部監査用の透明封筒へ入れた。


封緘前、用紙左上の紙繊維が一部薄いことに気づく。


薬品で何かを消した跡だった。


斜めから光を当てる。


六桁の管理番号欄。


最初の五桁はゼロに見えた。


最後の一桁だけが、繊維ごと削られている。


その横に、古文書と同じ欠け方の受付印があった。


読めるのは〈蔵〉の一字。


「運用初日の紙です」


ねむが印刷ロットを確認した。


「江戸期の失せ物帳と、受付印が重なるかもしれません」


課長は紙を見たが、手を出さなかった。


「重ねるのは監査にやらせろ」


保管庫の扉が封鎖される。


電子錠は課長、相崎、ねむの権限をすべて拒否した。


九十六枚の白紙と、消された管理番号と、複製された相崎印が、外部監査の鍵へ移った。


地下三階へ戻ると、相崎の決裁待ち一覧から十三件が消えていた。


保留ではない。


処分でもない。


証拠を守るために、誰にも触れられない場所へ移された。


翌朝に視力を受け取るはずだった男から、二通目の異議申立てが届いた。


今度は、相崎の決裁そのものに対する異議だった。

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