第20話 白紙の保留決裁書
九十六枚の白紙すべてに、相崎の判子があった。
品目欄は空。
所有者欄も、排出日時も、申請理由も空。
右下の保留決裁欄だけに、古印体の「相崎」が赤く並んでいる。
地下四階、第二文書保管庫。
定期監査で開けた施錠引き出しの中から、束は見つかった。
引き出しの電子記録では、五年間一度も開いていない。
それなのに紙の上には、乾ききっていない朱色があった。
「触らないでください」
ねむが相崎の手を止めた。
透明手袋を二組取り、片方を渡す。
昨日から事故関連記録へのアクセスは停止されている。
この束はまだ事故関連と登録されていないため、彼女の画面にも表示されていた。
「枚数、九十六」
ねむが数取器を押した。
「すべて旧式の保留決裁書。用紙番号は連番ではありません。二〇二一年から二〇二三年まで、少なくとも六回の印刷ロットが混在しています」
「同じ引き出しへ、三年かけて足した?」
「開閉記録では不可能です」
相崎は引き出しの内側を照らした。
蝶番、鍵受け、背板。
隠し口はない。
底に黒い砂が薄く溜まっている。
ダンジョン由来のケイ酸塩だった。
紙束は扉から入れられたのではない。
第一則か第二則によって、閉じた保管庫内へ直接移動した可能性がある。
「遺失物としての排出ログは」
「ありません。保管庫の重量センサーは今朝九時十三分に四・二キロ増えています」
「その時刻、俺たちは」
「三階にいました。入退室記録も一致しています」
白紙書類は、誰もいない施錠庫へ現れた。
六つの印刷ロットが混じる紙束の側面に、結束帯の圧痕が一続きで残っていた。
一枚目と最後の一枚からは、同じ青い梱包繊維と、冷蔵搬送箱用の防黴剤が出た。
別々の年度に保管した紙ではない。
今朝まで別の場所で九十六枚を束ね、閉じた引き出しを送り先に使った形だった。
ねむは最上部の一枚を撮影し、印影比較へ送った。
基準に使うのは、相崎が前日に押した通常の保留印。
輪郭は一致。
古印体の欠けも、外周の小さな傷も一致する。
自動判定は〈同一印章〉を出した。
「主任が押したものですか」
ねむが訊いた。
相崎は判子を手袋越しに持った。
黒水牛の側面に、備品管理番号が刻まれている。
五年前から同じ印を使っている。
「印影だけでは、押した人間まで分からない」
重ね合わせると、九十六の印影は角度も押圧も一致した。
赤色顔料は指定朱肉と同じで、紙の裏には押圧痕がある。
プリンターではない。
さらに、印影の左下に髪より細い白い繊維が、同じ曲がり方で写り込んでいた。
本物を繰り返し押せば剥がれる繊維まで固定されている。
相崎は、原印を一度型取りした複製印が固定器具で使われた、と監査票へ記載した。
購買記録には一件だけ、《書類画像安定化治具》という名目の機器があった。
納入者は処分品搬送の委託先。
仕様欄には、円形印面を一定角度で保持し、同じ圧力を反復できるとある。
納入先の部屋番号は削除され、受領印には課長印の複製と同じ傾きが残っていた。
合法な備品を横流しへ使ったのか、最初から複製用に買ったのか。
注文書だけでは、そこまで証明できない。
「複製元になった一枚を探します」
ねむは相崎の過去の決裁書を年代順に呼び出した。
二〇二一年の通常案件、四百十二件。
事故関連は権限停止で開けない。
一般案件の印影だけを比較し、白い繊維が最初に現れた日を絞る。
相崎の正式異動から二日目、午後四時二十二分。
第四種の保留決裁書。
品目と所有者は閲覧制限。
その印影には、左下に同じ白い繊維があった。
翌日の決裁では消えている。
「この印影から複製したなら、異動二日目の夕方から三日目の朝まで」
ねむが言った。
「その一枚を撮影するか、印面そのものから型を取った」
「当時の保管担当は」
「職員表を照会します」
画面に五年前の遺失物課配置が出た。
課長の名はある。
相崎の名も、決裁担当としてある。
ほかに三名。
二名は異動、一名は退職。
夜間入室記録は欠落していた。
「欠落?」
「保存期限は七年です。まだ消えないはずです」
「消した記録は、保存期限を守らない」
相崎は束の側面を見た。
用紙の間に、白紙ではないものが一枚だけ挟まっている。
細長い搬送票だった。
表面は熱で黒くなり、読めるのは一行。
〈R4/B7-12〉
焼却済みの腕時計と一緒に処分箱から見つかった紙片と同じコード。
下の七桁も一致した。
「偶然ではありません」
ねむが二つの画像を並べた。
「この白紙書類は、第4再資源化保管区を経由した」
「まだR4が何を指すか、確定していない」
「時計の油、旧称、二枚の搬送票。三点です」
「仮説として記録しろ」
ねむは〈外部倉庫経由の疑い〉と入力した。
断定に変えなかった。
束の紙には、保留書式だけでなく、裏面へ薄い圧痕があった。
別の用紙を重ねて記入した跡。
斜光を当てると、管理番号が浮かぶ。
六桁。
同じ番号は一つもない。
相崎が十件を抽出し、通常システムへ照会した。
全件が〈処分完了〉。
白紙の表面は保留。
背後の記録では処分。
一枚の複製印が、相反する二つの決裁に使われている。
「保留書式を見せて、処分経路へ送った?」
ねむの語尾が短くなった。
「所有者へは保留通知。内部では処分済みに変更。現物はR4へ」
「仮説だ」
「時計はR4から戻った」
「時計一個では、九十六件を証明しない」
「だから九十六件、調べます」
ねむは一枚ずつ圧痕番号を読み取り始めた。
二十件目で、該当なしが出た。
二十一件目も。
番号は連続している。
消された案件群だった。
二十八件目に、第五種の記録が残っていた。
品目欄は閲覧制限。
処分承認者は相崎。
書面上の決裁日は、相崎が事故後の入院記録上、病棟から出ていない日だった。
「この日は、押せません」
ねむが病棟の入退室証明を表示した。
「外出許可なし。職員証も未発行です」
相崎が遺失物課へ正式異動したのは、その翌週だった。
それより前の日付が印字された書類に、後から作られた相崎印がある。
紙の製造ロットは、相崎の異動後。
電子台帳への登録も、異動二日目の夜以降だった。
複製印を先に使ったのではない。
決裁日を事故直後へ遡らせ、入院中の相崎が押したように偽装していた。
「誰かが、先に印影を用意していた」
「決裁者になると決まった時点で」
「利益相反も知った上で」
ねむがそこまで言い、口を閉じた。
何の案件で利益相反があったかは、この束からは分からない。
相崎は二十八件目を別の証拠袋へ入れた。
「課長を呼べ」
課長は十分後、監査担当二名を連れて来た。
白紙の束を見ても、驚いた言葉は出さない。
搬送票のコードで足が止まった。
「これを、どこで」
「束の中です」
ねむが答えた。
「焼却済みの腕時計からも同じコードが出ました」
「外部へ送るな」
課長は即座に言った。
「通常監査系統へ登録すれば、上からも見える」
「隠すんですか」
「保全先を変える。局内監査だけじゃなく、外部監査用の封印を使う。俺も閲覧者から外せ」
課長は自分の職員証を机へ置いた。
「この束に、課長が知っているものがありますか」
「あるかもしれん」
「どれです」
「今ここで俺が選べば、俺に都合の悪い紙を抜いたと疑われる。だから触らん」
課長は手袋へ伸ばしかけた手を戻し、棚から二歩離れた。
監査担当へ、棚全体の封鎖を指示する。
「九十六件、全部止めるぞ」
「止める?」
ねむが訊いた。
「過去の処分決裁へ緊急異議を付ける。現物が残っていれば移動停止。返却予定が入っている関連案件も、真正確認まで凍結だ」
過去の不正を調べるため、現在の正規案件まで止まる。
対象一覧が端末へ出た。
四十三件は既に終了。
二十七件は所有者死亡。
十三件は記録消失。
残る十三件のうち、三件に返却予定が入っていた。
一件は翌朝、視力の一部を本人へ統合する予定。
一件は週末、失われた職能記憶を返す予定。
一件は離婚調停中の関係性記録だった。
「証拠保全をすれば、この三人の返却が止まります」
ねむが言った。
「止めなければ、不正な印影を正しいものとして扱う」
相崎は三件の予定を開いた。
視力の申請者は、復職日を返却翌日に設定している。
職能記憶の申請者は、再雇用試験を予約済み。
関係性の当事者は、返却結果を前提に親権調停を進めている。
一枚の異議申立てで、三人の予定が崩れる。
九十六件をそのままにすれば、何人の過去が複製印で動いたか分からない。
「緊急停止」
相崎は言った。
ねむが三件へ延期通知を送る。
視力の申請者から、すぐ着信が入った。
「明日、見えるようになるって」
男の声が端末から漏れた。
「そう聞いて会社にも話したんです。どうして今日になって」
ねむは制度不正の可能性と、再審査期限が未定であることを伝えた。
「今日決まったのは、延期だけです。再開日は決まっていません」
相手は途中で通話を切った。
復職先からの着信が、その直後に申請者の端末へ入ったことだけが連携記録に残った。
保全の最初の損害だった。
二件目は、職能記憶を待つ女からだった。
『再雇用試験は八日後です。次の募集では年齢条件を越えます』
失われたのは溶接技能の手順記憶。
返却が済めば実技試験を受けられるという医師の見込み書があり、訓練会社の席も押さえていた。
「再審査前の統合は認められません」
ねむが言う。
『不正をした人の判子でしょう。どうして、私の仕事が止まるんですか』
答えは説明できても、八日を増やす欄はなかった。
三件目の関係性記録では、家裁から期日変更の通知が届いた。
当事者の男が音声回線へ入り、返却結果を待つよう求めたのは裁判所だと繰り返した。
『子どもと会えるかどうかを、あの記録で決めると言われた。今さら記録が怪しいなら、これまで会わせなかった判断は何だったんです』
再審査中、試行面会の回数は増えない。
相手方と子どもの安全評価も、白紙決裁書の真正とは別に続く。
一つを急げば他方の審査を飛ばすため、ねむは期日の延期しか通知できなかった。
三人の予定は、同じ複製印で止まった。
相崎は束の代表一枚を、異議申立可の書式へ載せた。
通常、過去の決裁に異議を付けるのは所有者か遺族だ。
今回は決裁印の名義人自身が、印影の真正へ異議を申し立てる。
親指で印面を一度撫でた。
朱肉へ押す。
紙へ下ろし、離し、もう一度下ろした。
印面が紙を二度、叩いた。
二つの赤い印影が、白紙の保留印の横へ並んだ。
ねむは代表紙を外部監査用の透明封筒へ入れた。
封緘前、用紙左上の紙繊維が一部薄いことに気づく。
薬品で何かを消した跡だった。
斜めから光を当てる。
六桁の管理番号欄。
最初の五桁はゼロに見えた。
最後の一桁だけが、繊維ごと削られている。
その横に、古文書と同じ欠け方の受付印があった。
読めるのは〈蔵〉の一字。
「運用初日の紙です」
ねむが印刷ロットを確認した。
「江戸期の失せ物帳と、受付印が重なるかもしれません」
課長は紙を見たが、手を出さなかった。
「重ねるのは監査にやらせろ」
保管庫の扉が封鎖される。
電子錠は課長、相崎、ねむの権限をすべて拒否した。
九十六枚の白紙と、消された管理番号と、複製された相崎印が、外部監査の鍵へ移った。
地下三階へ戻ると、相崎の決裁待ち一覧から十三件が消えていた。
保留ではない。
処分でもない。
証拠を守るために、誰にも触れられない場所へ移された。
翌朝に視力を受け取るはずだった男から、二通目の異議申立てが届いた。
今度は、相崎の決裁そのものに対する異議だった。




