第19話 ねむの直撃
人事ファイルの親族欄だけが、黒く塗られていた。
久住ねむ本人の氏名、住所、学歴、採用区分は読める。
緊急連絡先と家族構成は、保護指定を理由に非表示。
その黒い欄の上へ、ねむは戸籍全部事項証明の写しを置いた。
「業務外の話をします」
終業時刻を二分過ぎた地下三階に、ほかの職員はいない。
課長は監査室。
終業を告げる館内放送が切れ、机の上には紙の擦れる音だけが残った。
相崎は職員端末の時計を見た。
「残業申請は」
「出していません」
「なら二十分以内」
「十分で終わらせます」
ねむは戸籍の一行を指した。
父母の下に、二人の娘。
長女、久住あさひ。
次女、久住ねむ。
「私、久住あさひの妹です」
正式な言葉は、それだけだった。
既に机の上には、姉妹であることを証明する紙と、職務上の利害関係申告書が揃っている。
ねむは告白ではなく、届出として持ってきた。
相崎は戸籍へ触れず、利害関係申告書を読んだ。
対象案件の欄は三つ。
二〇二一年、第12ダンジョン全滅事故。
事故関連遺失物。
親族に属する可能性がある未特定案件。
管理番号欄は空白だった。
「人事には」
「採用時に申告しています。配属審査では、親族案件を単独照会、単独決裁しないという条件でした」
ねむは採用時の申告受領票を端末へ読み込ませた。
電子署名の時刻は、配属希望を出す三か月前。
今日になって作った紙ではない。
人事課の確認担当を内線へ呼ぶ。
『親族関係の申告は受けています。保護指定のため、配属先へは氏名を伏せ、制限条件だけ通知しました』
「通知を受けた者は」
『課長と情報管理責任者です。直属の主任には、親族氏名の閲覧権限がありません』
相崎の職員番号で人事ファイルを開くと、今も家族欄は黒いままだった。
初日から知っていたという答えを、制度の側が否定した。
ただし、ねむが事故資料を照会するたび、別職員の立会い認証が必要になる設定は動いていた。
彼女が一人で内部記録を持ち出した履歴はない。
「その条件で遺失物課を志望した?」
「はい」
「矛盾してるな」
「通った方の条件を使いました」
ねむは椅子へ座らなかった。
右手が耳へ上がり、髪の手前で止まる。
「姉は、考えをまとめるときに右耳を触りました」
その手を机へ戻した。
「私も同じだと、最初は思わせたかった」
「誰に」
「主任と、真鍋さんに」
真鍋が地下三階へ来た日。
ねむが右耳へ触れた瞬間、白いコートの女は質問を止めた。
デンモクの履歴を見た日、ねむは「姉が」と言いかけた。
別々の違和感は、同じ名字へつながっている。
相崎は申告書の受領欄を開いた。
「知ってた」
ねむの指が戸籍の端を押さえた。
「いつからですか」
「最初からじゃない」
相崎は日付を確認した。
「デンモクのときに疑った。真鍋の反応で、ほぼ確定した」
「あの日から今日まで、知っていて黙っていた」
「君も黙っていた」
「私は調べるためです」
「俺も業務のためだ」
同じ形の文が、同じ意味にはならなかった。
ねむは鞄からもう一枚、五年前の写真を出した。
葛西が落とした写真の鑑定複写。
端に写る女性の右手へ、細い指輪がある。
「この人が姉です」
第12ダンジョンの入構ゲート記録と、家族が保管していた写真を顔照合した結果は九七パーセント。
死亡者名簿の画像とも一致する。
「公開編成表には姉がいて、主任はいません」
ねむは次に、六組の装備貸出票を置いた。
「装備は六人分。葛西さんは主任が班長だったと言う。主任の職員番号らしい圧痕もある」
「らしい、だ」
「違うなら、違うと」
「照合結果が出ていない」
「事故に参加していないんですか」
相崎は申告書の規程番号を読んだ。
質問へ答える代わりではない。
親族案件からねむを外す条件を確認するためだった。
「この申告を受理した時点で、君は事故関連記録を単独で閲覧できなくなる」
「分かっています」
「葛西の心臓、写真、五年前の編成表。検索も複写もできなくなる」
「家族として開示請求します」
「職員より時間がかかる」
「職員のまま隠れて見るよりましです」
ねむは申告書を相崎の前へ滑らせた。
「主任が知っていたと分かった以上、私だけが伏せ続ける理由はありません」
「真相に近づく手段を、自分から減らすのか」
「違います」
ねむは黒塗りの人事ファイルを閉じた。
「どの立場で見るかを、記録に残します」
相崎は受領欄へ署名した。
これは遺失物の決裁ではない。
返却、保留、処分、異議申立可の欄はなく、受領署名だけがある。
一人の職員が、自分は当事者だと届け出るだけの手続きだった。
送信すると、ねむの端末に赤い帯が出た。
〈利益相反対象。第12ダンジョン事故関連記録への単独アクセスを停止〉
ねむが試しに事故番号を検索する。
単独閲覧権限なし。
さっきまで開けた写真も、編成表も、灰色の箱へ変わった。
もう一度開くと、外部監督者への立会い申請だけが起動した。
申告後も調査を続ける道は残る。
ただし、誰にも見られずに先へ進む道は閉じていた。
届出の具体的な代償だった。
「十分、経ちました」
相崎が言った。
「あと一つです」
「業務外か」
「はい」
ねむは姉の戸籍を自分の鞄へ戻した。
「主任は、姉が死んだ日のことを覚えていますか」
「公式記録では、俺は事故班にいない」
「公式記録の話はしていません」
「なら、回答する記録欄がない」
「また、業務ですか」
相崎はパソコンを終了させた。
画面の光が消え、窓のない室内から一つだけ白い面がなくなった。
「姉の栞を処分したとき」
ねむの文が短くなった。
「私が妹だと、まだ知らなかった。デンモクのときは疑った。真鍋さんが来て、分かった。それからも主任は、何も聞かなかった」
「聞けば、君は答えたか」
「今日なら」
「今日まで待ったのは君だ」
ねむは机の角へ手を置いた。
「じゃあ、なぜ主任も待ったんですか」
監視端末が夜間表示へ切り替わり、二人の机の間を灰色の光で分けた。
相崎は終業札を裏返した。
〈窓口終了〉。
ねむの問いは聞こえていた。
回答だけが、業務時間の外へ残された。




