第16話 鏡に映らない男
鏡の中では、椅子だけが空いていた。
面談室には男が座っている。
灰色の上着、組んだ両手、左の頬を横切る古い傷。
相崎が直接見れば、どれもそこにある。
壁へ立てた姿見を通すと、男の輪郭だけが抜け、背後の椅子と白い壁が映った。
「瀬川隆さんで間違いありません」
ねむが本人確認結果を読み上げた。
「鏡の所有記録、購入時の保証書、指紋、すべて一致しています」
「だったら返してください」
瀬川は鏡を振り返らなかった。
「祖父から相続したものです。鑑定では百二十万円になる」
「返却目的は売却ですか」
「使えない鏡を家に置く趣味はない」
鏡は第5ダンジョン第二層から出た。
五年前、瀬川の自宅から消えている。
当時の盗難届には、玄関も窓も施錠され、鏡を運び出した痕跡はなかったとある。
第一則による遠隔吸着。
何者かが鏡を不要と判断し、ダンジョンが距離を越えて持ち去った。
「異常は、瀬川さんが映らないことだけです」
ねむは検疫映像を切り替えた。
職員、清掃員、検査用人形は映る。
瀬川の写真を鏡へ向ければ写真は映る。
生きている本人が前に立つと、その位置だけ背景へ置き換わる。
「画像処理だ」
瀬川が言った。
「昔の鏡にそんな機能はありません」
「じゃあ、管理局の仕掛けだ」
「仕掛ける理由も予算もありません」
相崎は鏡の裏板を調べた。
木枠の下部に、小さな四角い退色がある。
何かのラベルを剥がした跡だった。
紫外線を当てると、油性ペンの文字が浮かんだ。
〈せがわ家 玄関〉
家財整理業者の管理記号だった。
日付は五年前の三月。
鏡が消えた一か月前、瀬川は業者へ家財一式の処分見積りを依頼している。
「盗難届には、処分予定だったことが書かれていません」
ねむが言った。
「見積りだけだ。売るのをやめた」
「見積書には全品処分、退去日確定とあります」
「事情が変わった」
「何が」
瀬川の指が、組んだまま強く重なった。
「役所に言う必要はない」
相崎は裏板の留め具を見た。
四本のうち一本だけ新しい。
検疫許可を取り、裏板を外す。
中から薄い録音機が落ちた。
電池は切れている。
記憶媒体には、一件だけ消去済みデータが残っていた。
復元できたのは二十二秒。
〈これで、家から俺の物は全部なくなる〉
瀬川と同じ声だった。
〈写真も、名前も、俺がいたことも。鏡だけは――〉
そこで録音は切れている。
「盗聴だ」
瀬川が立ち上がった。
鏡の中では、空の椅子が床を擦った。
「録音機の指紋は瀬川さんだけです」
ねむが出口を塞がずに言った。
「録音日時は家財処分見積りの翌日。ご自身で入れた可能性が高い」
瀬川は座り直さなかった。
「五年前、妻と娘が出ていった。会社も潰れた。家を空にしようとした。それだけだ」
「鏡を不要と判断したのは」
「俺だ」
「鏡だけですか」
瀬川は初めて姿見へ顔を向けた。
鏡の中に、自分のいない面談室がある。
「知らない」
第一則が吸ったのは、家具としての鏡だけではない。
自分がそこにいたという反射も、同じ媒体へ定着した。
「では、なぜ今になって排出されたのか」
ねむが申請ログを出した。
瀬川本人の返却申請は、排出通知を受けた後だ。
ダンジョンが鏡を吐いた時点では、本人は存在すら知らなかった。
第二則の判定主体は別にいる。
「娘さんから、三日前に相続財産の照会が出ています」
ねむは一通の文書を置いた。
瀬川の元妻が亡くなり、娘が遺品を整理している。
古い家族写真では、玄関の姿見に撮影者の瀬川が映り込んでいた。
娘はその鏡の所在と、父親の現在地を同時に照会した。
〈父が家にいたことを確認できる物〉。
照会品目には、そう書かれていた。
ねむは娘の録音供述を再生した。
『会いたいとは書いていません。住所も伝えないでください』
声の後ろで、段ボールを閉じるテープが鳴っている。
『母の写真には、撮った人が一人も残ってない。玄関の鏡に父だけ映っていた写真があったのに、先週見たら、そこも空でした。母が一人で私を育てたことと、父が最初からいなかったことは同じじゃない』
提出された画像の撮影時刻は、瀬川が家財処分を見積もる四年前。
鏡面の右下にある銀の腐食斑まで、目の前の現物と一致した。
別の鏡を取り違えたという余地も消えた。
「第三則です」
ねむが言った。
「娘さんが、あなたの反射を欲しがった」
「俺は鏡を売る。娘には現金を渡す」
「娘さんは金銭を請求していません」
「同じことだ」
相崎は鏡の前に検査用カメラを置いた。
返却前の安全試験として、瀬川に鏡枠を持ってもらう。
カメラ映像から、瀬川の顔が消えた。
鏡面の中だけではない。
枠へ触れた三秒後から、鏡を撮影しているカメラ側でも人物認識が失敗した。
瀬川が手を離すと、映像に顔が戻った。
「影響が媒体の外へ出ています」
ねむが試験を停止した。
「返却して所有者へ統合すれば、鏡以外の記録からも瀬川さんが消える可能性があります」
「可能性だろ」
「いま、職員のカメラから三秒消えました」
それは予測ではなく記録だった。
返却すれば、娘が求めた父の存在証明を、父本人が持ち帰った瞬間に失うかもしれない。
保留すれば、瀬川は鏡を売れない。
娘の相続照会も止まり、元妻の手続きは完了しない。
「第一種、保留」
相崎は安全性未確定を理由欄へ入れた。
瀬川が机へ手をついた。
「売却期限は今月末だ。借入先に約束してる」
「保留通知を提出してください。差押財産の確定も延期されます」
「借金が消えるわけじゃない」
「鏡に、その機能はありません」
相崎は保留欄へ押し、売却不可の通知を送った。
瀬川の端末へ、売却不可と相続審査延期の二通が届いた。
一分後、借入先から担保再評価の通知が届いた。
月末までに売却証明を出せなければ、翌月から金利を引き上げるとある。
娘側の相続手続にも、所在調査継続の表示が付いた。
鏡を留めた一枚で、会うつもりのない二人の期限だけが同時に延びた。
彼はどちらも開かず、面談室を出た。
残った姿見には、閉じかけた扉と相崎、ねむが映っている。
「主任は」
鏡の中のねむが言った。
「自分を消したいと思ったことはないんですか」
相崎は鏡面に映る自分の職員証を裏返した。
顔写真が見えなくなっただけで、男の姿は残った。
質問への回答欄は、この面談にはなかった。
復元した録音機が、最後に残った無音だけをもう一度再生した。




