第15話 ねむ、初担当
アルバムの後半二十ページは、黒い糸で縫い合わされていた。
糸は背表紙を貫き、ページを開こうとするたび、古い台紙が一緒に引き裂かれそうになる。
前半には誕生日、運動会、海水浴。
後半には写真があるのかさえ、閉じたままでは分からない。
「第一種、物理的遺失物」
ねむが主担当席で言った。
声はいつもと同じ高さだったが、端末のログインを一度間違えた。
「埼玉第十二ダンジョン第一層から排出。所有者は大庭美沙、二十六歳。本人確認と返却申請は完了しています」
相崎は隣の確認席に座っていた。
決裁印は机へ置き、手を触れない。
今日の案件では、ねむが調査し、ねむが決める。
相崎は法令上の確認者に回る。
「申請内容を」
「前半三十二ページは返却。後半二十ページは未開封のまま処分。表紙と背を分解し、前半だけを再製本してほしい」
「製本費の予算科目は」
「ありません」
「初担当で省内に新しい事業を作るな」
「依頼人にも、当課は写真店ではないと説明済みです」
ねむは面談回線を開いた。
大庭美沙は、式場の打合せ室から接続した。
背後に白いドレスのカタログが立ててある。
「来月、結婚するんです」
大庭は先に言った。
「小さい頃の写真だけ欲しいんです。後ろは、見たくありません」
「黒い糸で閉じたのは、あなたですか」
ねむが訊いた。
「たぶん母です。高校を出る頃には、もうああなっていました」
「処分したい理由を、審査記録へ残せますか」
「残したくないから処分を頼んでいるんです」
大庭の返答は速かった。
ねむは申請書の自由記載欄を画面へ出した。
〈十代の非行歴を含む。配偶者となる者には未告知。返却によって婚姻に重大な不利益が生じる〉
本人が書いた文だった。
「国にだけは、もう説明しています」
大庭が言った。
「なら、十分でしょう」
「後半を一枚も確認せず処分すると、何を消したのか国も証明できません」
「証明しなくていいです」
「処分記録には品目が要ります」
「嫌な過去、で」
ねむは入力欄を閉じた。
「分類名として広すぎます」
相崎は口を挟まなかった。
主担当の画面には、返却、保留、処分、異議申立可の四つが並んでいる。
ねむはまず「分割決裁」を選び、前半を返却、後半を処分へ設定した。
確認ボタンの手前で、ポインターが止まる。
「何を待ってる」
相崎が訊いた。
「検疫の開封許可です」
「申請者は未開封処分を求めている」
「その要求どおりなら、調査はここまでです」
「そうだな」
相崎は黒い糸を見た。
「事件も、ここまでだ」
ねむのポインターが分割決裁から離れた。
所有権の確認へ戻る。
アルバムの表紙裏には、大庭美沙へ、という贈与の文があった。
筆跡は母親。
所有者は大庭で確定できる。
だが黒い糸は、母親が使っていた裁縫糸と一致しなかった。
糸にはダンジョンの砂が付いていない。
排出後、誰かが縫った可能性がある。
「回収班の梱包映像を確認します」
ねむが昨夜の映像を呼び出した。
排出口から出た時点で、後半は閉じている。
黒い糸も映っていた。
では糸はダンジョン内部で追加された。
第一則で吸われたとき、アルバムはまだ開けた。
第二則で吐かれるまでの間に、誰かが後半を閉じたことになる。
「ダンジョンが製本した?」
「糸を使って意思表示をした可能性があります」
ねむは映像を一コマずつ戻した。
アルバムに続いて、細い金属片が排出口から落ちている。
回収班はゴミとして別袋へ入れていた。
検疫倉庫から取り寄せると、錆びた縫い針だった。
針穴には同じ黒糸が残っている。
「誰かがダンジョンの中で縫ったなら、指紋があるかもしれません」
ねむは針を鑑識へ回した。
大庭の指紋とは一致しない。
母親とも違う。
照合で出たのは、大庭一樹。
大庭美沙の二歳下の弟だった。
「弟さんについて、申請書に記載がありません」
ねむが再び面談回線を開いた。
大庭の後ろからドレスのカタログが消えていた。
「関係ないです」
「針から弟さんの指紋が出ました」
大庭の顔が画面の中央から外れた。
「連絡を取っていません。七年くらい」
「後半の写真には、弟さんも写っていますか」
「知りません」
「見たことがない?」
「見たくないって言ってるでしょう」
大庭は回線を切った。
ねむは切断時刻を記録し、弟の所在照会を申請した。
相崎が確認者欄へ職員証を当てる。
「私的な家族照会にするな」
「遺失物の第三者関与です」
「理由欄へそう書け」
「もう書きました」
大庭一樹は県外の自動車工場で働いていた。
連絡に応じたのは昼休みの十分だけだった。
作業服の胸に名字の刺繍がある。
「俺が縫いました」
一樹は否定しなかった。
「高校の時です。姉が家を出る前の日に」
「昨夜、排出されたアルバムについてです」
ねむが針の画像を示した。
「同じ針がダンジョンから出ています」
「じゃあ、まだ閉じてたんですね」
「中身を確認したことは」
「あります」
一樹は工場の時計を見た。
「父親が家で暴れた後の写真です。割れた食器とか、壁の穴とか。母が、あとで自分が忘れないように撮ってた。俺たちが笑ってる写真もある。笑ってれば、外からは普通の家に見えたから」
ねむの右手が右耳へ上がり、途中で机へ戻った。
「なぜ縫ったんですか」
「姉が結婚すると聞いたから」
「七年、連絡を取っていないと」
「母の葬式にも来なかった。でも、式場の人が昔の写真を探してるって実家へ来た。あれを開けて、都合のいい写真だけ持っていくと思った」
「それを止めるために縫った」
「俺が写ってる事実まで、姉一人のものにされたくなかった」
大庭美沙は後半の過去を不要と判断し、結婚式のため前半だけを欲しがった。
弟は、姉が家族の記録を選別することを拒んだ。
二人の相反する要求を、ダンジョンは一冊に閉じ込め、黒い糸で固定して返した。
「弟さんは、アルバムの返却を求めますか」
「要りません」
「写真の複製は」
「国に家族の記録を持たれるのも嫌です」
「では、何を求めていますか」
一樹は画面の外にいる誰かから呼ばれた。
「姉が自分で開けることです。捨てるなら、見てから自分で捨てればいい」
回線が切れた。
ねむは四つの決裁欄を見直した。
分割返却と処分。
一冊全体の返却。
共同所有権を理由に保留。
弟へ異議申立ての機会を与える。
「所有者は大庭美沙です」
ねむが言った。
「弟は被写体であり、針の所有者ですが、アルバムの所有者ではない」
「写真に写る本人として、複製停止を求めることはできます」
相崎が規程を確認した。
「ただし物理アルバムの返却そのものを永久に止める権利ではない。異議期間中に、所有者と被写体の調整をするだけだ」
「弟さんは複製を求めていません。姉が中身を見ずに国へ捨てることへ反対している」
「法は、見ることを強制しない」
「だから、強制ではなく選択を返します」
「そうだな」
「法的には、本人の希望どおり分割処分ができます」
「できる」
「主任なら、どうしますか」
「主担当は君だ」
相崎は答えを渡さなかった。
ねむは後半ページの非破壊走査を申請した。
画像を閲覧するのではなく、枚数と素材だけを調べる。
二十ページのうち、写真が貼られているのは十八ページ。
残り二ページには、紙が一枚ずつ挟まっている。
一枚は母親名義の診断書。
もう一枚は、家庭内暴力に関する警察の相談受理票だった。
原本か複写かは開かなければ分からない。
処分すれば、写真だけではなく、公的記録も消える。
「申請者は非行歴と書いています」
ねむが言った。
「実際には被害記録が含まれている可能性がある」
「本人がそれも要らないと判断しているなら?」
「被害者が自分の記録を処分する権利はあります」
ねむはそこで文を切った。
児童相談所の保存記録も照会した。
該当期間の相談票は保存期限満了で廃棄済み。
警察の受理票も、事件化されなかったため検索対象から外れている。
アルバムの二枚が原本なら、当時の公的対応を示す最後の紙になる。
複写なら、それでも誰かが保存しようとした事実は残る。
ねむは内容を開かず、紙端に露出した様式番号だけを照会した。
診断書の番号は、当時の病院が母親へ交付した控えと一致した。
警察の相談受理票は原簿を廃棄済みだったが、同じ日の受付連番には一件だけ欠番がある。
書式を家庭で偽造したという逃げ道は狭くなった。
「二枚だけ、第三者の公証庫へ寄託する方法があります」
ねむが代替案を作った。
写真は返し、書類は本人が必要になるまで封緘する。
ただし寄託には品目の特定と五年ごとの継続同意が要る。
見たくないと申し出た本人へ、国から確認通知が届き続ける。
「捨てないことを、本人へ知らせ続ける制度です」
相崎が言った。
「保全を善意で選んでも、連絡先を国が持つ負債は残る」
ねむは寄託案を残したまま、大庭へ選択肢として提示することにした。
「でも、国が中身を確かめず、本人のいう『非行歴』として処分すれば、記録上はその説明だけが残ります。被害の記録を、被害者の非行として国家が確定することになる」
相崎は確認者席の端末を閉じた。
「それが君の決裁理由か」
「はい」
ねむは大庭へ三度目の接続要求を送った。
今度は応答まで長くかかった。
「後半には、診断書と警察の受理票が挟まっています」
ねむは中身を表示せずに伝えた。
「二枚だけ外部へ封緘保管する方法もあります。更新時には、あなたへ確認が届きます」
「いりません」
大庭の返事は、三度目の接続で初めて質問より先に来た。
「国に残すか、家へ戻すかを、何年も聞かれたくないです」
「処分希望を維持することはできます。ただし品目は『十代の非行歴』ではなく、『家族写真十八ページ、医療・警察関係書類二点』として記録します」
「そんなもの、残さないで」
「処分しても、何を処分したかは残ります」
「何もなかったことにできないんですか」
「当課ができるのは、物を返すか、保管するか、処分するかです。事実を作り替える決裁欄はありません」
大庭は長く画面を見た。
「全部、返してください」
「後半も」
「自分で開けます。弟には渡しません」
「所有者として、それも選べます」
「あの人にも伝えてください。捨てるかどうかは、私が決めるって」
「伝達記録を残します」
回線が切れたあと、ねむは一冊全体を返却可へ設定した。
分割処分の申請は本人撤回。
弟には、返却決定と異議申立期限が通知される。
期限中に申し立てれば返却は止まる。
申し立てなければ、黒い糸で閉じたまま大庭へ届く。
「決裁前確認」
相崎が言った。
「返却の具体的な不利益は」
「大庭さんは、見ないまま国へ捨てさせることができなくなりました。弟は、自分の記録が捨てられる可能性を止められません。異議を出せば、七年ぶりに姉と同じ手続きへ入ることになります」
「保留の負債は」
「婚礼予定に間に合いません。弟へ判断を預け続けます」
「処分の負債は」
「被害記録を『非行歴』として国が消します」
「異議申立ては」
「弟へ、姉の婚姻を止めるような重さを返します」
相崎は頷かなかった。
不足があれば止める確認者が、止めなかった。
ねむは自分の決裁印を取り、朱肉へ押し当てた。
一度では色が乗らない。
朝、補充すると言って忘れていた。
朱肉の蓋の裏に、新しい補充液が未開封で挟まっている。
「久住さん」
相崎が声をかけたときには、ねむの腕が下りていた。
印面が紙に乾いた音を落とした。
書式は返却可。
音だけが、保留だった。
ねむは印影の薄さを見て、補充液へ手を伸ばした。
「押し直します」
「二重押しになる。訂正手続きが増える」
「この濃さで読み取れますか」
「番号は読める」
「では、有効です」
ねむは補充液を開け、次の業務のために朱肉へ垂らした。
決裁をやり直すためではなかった。
返却通知が送信されると、二件の反応が同時に届いた。
大庭美沙からは受領予定日の指定。
大庭一樹からは異議申立てをしないという回答。
その直後、三件目が届いた。
大庭からの窓口対応への苦情だった。
〈依頼していない家族関係への介入により、精神的負担を受けた〉
担当職員欄には、久住ねむ。
初決裁と初苦情が、同じ時刻で人事記録へ載った。
ねむは苦情票を印刷し、自分の決裁書の後ろへ綴じた。
「処分しますか」
相崎が訊いた。
「保管します」
「返却は」
「求められていません」
ねむは新しい朱肉の表面を確認し、蓋を閉じた。
部屋の奥で冷凍保管庫の低周波音が続いていた。
さっきの乾いた音だけが、その中にまだ残っているように聞こえた。




