第14話 猫が一匹、無傷で
三毛猫は、証拠品トレイの上で職員証の紐を噛んでいた。
泥はついていない。
爪も、歯も、色褪せた赤い首輪も、五年前の捜索願に添付された写真と同じだった。
違うのは、写真の中では子猫だった体が、いまも子猫に近い大きさであることだけだ。
「生体年齢、一歳二か月から三か月」
ねむが検疫票を読み上げた。
「失踪時の推定年齢は一歳二か月。誤差を考えても、五年は経っていません」
歯石の蓄積、骨端線、首輪の摩耗も同じ結果だった。
猫の体内では、失踪から十七日しか経っていない。
一方、首輪の暦情報は五年分を保持している。
身体と「家族だった期間」が、別々の時間を進んでいた。
猫は職員証から口を離し、ねむの手袋へ鼻をつけた。
そのまま透明トレイを降りようとする。
相崎が書類の束で進路を塞ぐと、猫は束の上へ座った。
「第一種にしては、自分で移動しすぎるな」
「生体は物品ではありません」
「遺失物課へ届いた時点で、制度上は物品だ」
「制度の方を檻へ入れたいです」
検疫室のガラス越しに、課長が運搬用ケージを置いた。
「総務が犬用を持ってきた。猫用は別会計だそうだ」
猫は大きすぎるケージを見て、相崎の書類の上で丸くなった。
地下三階の冷凍保管庫が低く鳴るたび、片耳だけをそちらへ向ける。
「分類は」
相崎が訊いた。
ねむは第一種の欄へ入力しかけ、手を止めた。
「第五種、暫定」
「理由」
「排出されたのが猫の身体だけなら、生体を第一種として扱う余地はあります。でも、首輪の残留情報が一致しません」
首輪の内側には飼い主の電話番号が刻まれている。
検疫走査では、革から第四種に近い反応も出ていた。
文字や匂いではない。
〈家族として所有されていた事実〉。
誰かの家に属していたという状態が、猫の身体へ付着して排出されたと、分類器は表示していた。
「猫が家族を失くしたのか、家族が猫を失くしたのか」
「分類器は主語を出してくれません」
「予算を使って、肝心な欄だけ空白か」
「高性能です。分からないことを正確に分からないと表示します」
所有者の榊美保は、都内の動物病院から映像面談へ接続した。
五年前、猫が消えたあとに何十枚も貼った捜索ポスターを、まだ一枚だけ保管しているという。
画面へ映された紙は、雨染みで電話番号が読めなくなっていた。
「返してください」
榊は猫の姿が映る検疫カメラを見たまま言った。
「今度は、絶対にいなくならないようにします」
「消えた当日の事情を確認します」
ねむが警察の相談記録を開いた。
当時、榊は退職直後で、家賃を三か月滞納していた。
動物病院の未払いもあり、猫の引取先を探している。
失踪の前夜、友人へ送ったメッセージが残っていた。
〈もう飼えない。明日の朝、誰かの家の前へ置いてくる〉
榊の画面が一瞬止まった。
通信状態ではない。
榊自身が動きを止めていた。
「置いていません」
「翌朝には消えていた」
「ケージを出して、首輪を外そうとしました。でも、できなかった。朝になったら、この子だけがいなかったんです」
第一則が拾ったのは、実際の遺棄ではない。
一晩だけ、家族ではなく荷物として扱おうとした判断だった。
「第二則による返却要求は、榊さん本人で一致しています」
ねむは申請ログを確認した。
「第三者の要求は検出されていません」
「なら、返せるでしょう」
榊が身を寄せ、画面から額が切れた。
「返却前に、三件あります」
ねむは別の資料を出した。
ひとつは感染症の再検査。
ひとつは五年間の時間差に対する経過観察。
最後は保険会社からの求償通知だった。
猫の失踪から一年後、榊はペット捜索費用保険の死亡推定特約を受け取っている。
虚偽申請ではない。
当時の規約どおり、十二か月所在不明で支給された。
しかし生体が戻れば、支給根拠が遡って消える。
返還額は遅延利息を含め、八十六万円。
「そんな」
榊は初めて猫の映像から目を外した。
「私、今も分割で借金を返してて」
「返却を撤回した場合、この通知は出ません」
ねむが言った。
「猫は国の保護下に置かれ、譲渡の可否を別審査します。榊さんの債務も増えません」
「私の猫なのに」
「だから、選んでいただいています」
相崎は猫の前に二枚の紙を置いた。
返却同意書と、返却撤回書。
猫は両方の匂いを嗅ぎ、何も書かれていない裏面へ前足を置いた。
所有者を選ぶようには動かなかった。
「もう一件、現在の飼育状況です」
ねむが訊いた。
榊の部屋には、二年前に譲渡された成猫がいる。
一匹飼育を条件にした賃貸契約だった。
三毛猫を戻すなら転居するか、どちらかを別の家へ移さなければならない。
「いまいる子を捨てるつもりはありません」
榊が言った。
「二匹で住めるところを探します」
「その期間、この猫は検疫施設で預かります。最短でも三十日。家族としての返却は認めますが、今日連れて帰ることはできません」
「もう一つ」
ねむは獣医の所見を読み上げた。
「所有者へ統合した時点で、止まっていた身体時間が急に追いつく可能性があります。数分で五年老いるという意味ではありません。ただ、予測できないため毎週の検査が必要です」
「その検査代も」
「公費対象は最初の三十日です。その後は飼い主負担になります」
榊は返還額の通知と、検査費の見積りを並べた。
どちらも閉じなかった。
榊は画面の外へ手を伸ばした。
戻ってきた手には印鑑があった。
電子署名ではなく、紙の同意書を郵送すると言う。
「五年前、朝まで待って決めようとしました」
印鑑の蓋が机へ置かれた。
「今度は、今日決めます」
返却申請は維持された。
相崎は第五種暫定の返却可を選び、条件欄へ検疫と飼育環境確認を加えた。
印面が紙に湿る音がした。
同時に、保険会社への回収通知と、賃貸管理会社への飼育頭数変更照会が送信された。
榊の画面へ、債務額と提出期限が並んだ。
猫は戻る。
ただし榊の腕ではなく、まず国の検疫ケージへ。
五年前の一晩は消えず、八十六万円と新しい部屋探しになって返る。
面談が切れたあと、猫は相崎の膝へ移った。
爪を立てずに丸くなり、決裁書の特記事項欄を見ている。
そこだけが白紙だった。
「文字のないところが好きなんでしょうか」
ねむが言った。
「猫に分類基準を聞くな」
「人間より答えるかもしれません」
相崎は猫を抱き上げ、課長が置いた大きすぎるケージへ移した。
扉を閉める直前、猫の首輪から細い紙片が落ちた。
管理番号も品目もない。
印刷されていたのは、二〇二一年という年だけだった。




