第12話 冷蔵庫、丸ごと
冷蔵庫の扉に、「あさひへ」と書かれた付箋が貼られていた。
三百リットルの白い箱は、搬入用リフトを一台占有して地下三階へ降りてきた。
電源は抜かれているのに、側面が低く震えている。
部屋の奥にある冷凍保管庫の低周波音と、薄い鉄板が共鳴していた。
「第一種で間違いありません」
ねむが軍手を外した。
「千葉第九ダンジョン第一層から排出。製造番号は三枝直哉名義の購入記録と一致。本人は本体の返却と、内容物の処分を希望しています」
「家電と中身を別会計にしろ、か」
相崎は正面の付箋を見た。
丸い文字で、あさひへ。
その下に小さく、温めは六分、とある。
「総務に送れば、分別方法を決める会議だけで食品が先に期限を迎えるな」
「会議の開催通知は期限内に届きます」
ねむはそう答え、冷蔵庫の扉を開けた。
冷気と一緒に、柚子の匂いが流れた。
上段に缶飲料、中央に密閉容器、野菜室には何もない。
密閉容器の蓋にも、同じ筆跡で「あさひへ」とある。
「申請者の同居人です」
ねむが端末を示した。
「水瀬朝陽。朝に太陽の陽。二週間前に同居を解消しています」
あさひ。
同じ音が、異なる漢字で画面にあった。
相崎は付箋から製造番号へ目を移した。
「購入者は三枝一人か」
「領収書上は。ただし半額が水瀬さんの口座から送金されています」
「共同所有を隠して、丸ごと返却させる申請に見えます」
ねむは冷蔵室から小型の温度記録器を取り出した。
一般家庭の冷蔵庫には不要な機器だ。
食品管理アプリと連動し、開閉時刻と庫内温度を記録する。
最後に扉が開いたのは、同居解消の翌日、午前四時十二分。
三枝の申立書には、前日の午後十一時から自宅に一人だったとある。
「水瀬さんが戻った?」
「入室記録はありません。鍵は返却済みです」
ねむは付箋を光へ透かした。
裏側に、別の紙から移った青い罫線がある。
付箋は一度、何かに貼られていた。
相崎は密閉容器を検疫台へ運ばせた。
中身は鶏肉の煮込みだった。
成分検査に異常はない。
容器の底から、二つ折りの紙が見つかった。
「手紙です」
「開封同意は」
「内容物の全処分に同意済みです。ただ、共同所有者の同意がありません」
相崎は面談用端末を水瀬朝陽へ接続させた。
画面に映ったのは、短く切った髪の女性だった。
背景は無地で、位置情報は保護設定になっている。
「冷蔵庫は三枝さんへ返してください」
朝陽はカメラを見ずに言った。
「私の持分も放棄します。中身は捨ててください」
「容器の下から手紙が出ています」
ねむが告げた。
朝陽の指が画面の端へ消えた。
「それは、私が書いたものじゃありません」
「付箋とは筆跡が違います。筆圧も、使われたペンも」
ねむは折った紙を開かず、検査画像だけを画面へ出した。
赤外線では、折り目の内側に三枝の署名が見える。
手紙を書いたのは申請者側だった。
朝陽は数秒黙り、首を横へ振った。
「読みません」
「三枝さんは、内容物を処分してから本体だけ返すよう求めています」
相崎が言った。
「自分で書いた手紙を、国に未開封で捨てさせる申請です」
「あの人らしいです」
画面の向こうで、朝陽が一度だけ右耳へ手をやった。
相崎の隣で、ねむの軍手が擦れた。
「私も同意します。処分してください」
「共同所有物の一部処分には、双方が同じ対象を特定する必要があります。あなたは中身を確認していない」
「確認しないことを選べませんか」
「選べます」
相崎は答えた。
「ただし国が代わりに読んで、要らない部分だけ消す制度ではありません」
ねむが、閉じた冷蔵庫を側面から撮影した。
本体の塗装に、長方形の日焼け跡がある。
同じ大きさの紙が長く貼られていた痕だ。
現物の付箋より大きい。
「主任。付箋、二枚あったんじゃないでしょうか」
ねむは冷蔵庫の背面を調べた。
排水受けの隙間に、糊の剥がれた青い紙片が挟まっている。
取り出して並べると、正面の付箋の裏へ移った罫線と一致した。
青い紙には、三枝の筆跡で住所と鍵番号が書かれていた。
朝陽が現在いる保護先ではない。
二人が次に住む予定だった部屋の住所だった。
契約は、同居解消の三日前に取り消されている。
青い紙の番号を賃貸契約書と照合すると、部屋番号だけでなく、申込管理番号の末尾まで一致した。
単なる内見用のメモではない。
解約受付の音声には、三枝の声で「相手には私から伝える」と残っていた。
朝陽側の通知履歴には、解約の翌日に管理会社から届いた定型文しかない。
「伝えた、という記録は」
ねむが訊く。
「ありません」
三枝は画面の外を見た。
国へ捨てさせようとしたのは、終わった計画だけではない。
自分が終わらせたと相手へ告げなかった時間も、冷蔵庫の裏に挟まっていた。
三枝は未来の住所を書いた手紙を捨てたかった。
冷蔵庫を欲しがりながら、そこに残った二人分の計画は国家に切り取らせようとしている。
「三枝さんを接続します」
ねむが別回線を開いた。
スーツ姿の男は、本体価格を何度も口にした。
「二十万円したんです。食べ物や紙切れとは価値が違うでしょう」
「価値ではなく、排出単位の問題です」
ねむが言った。
「ダンジョンは本体と内容物を一件として排出しています。分割するなら、何を捨てるかをご自身で確認してください」
「見たくないから頼んでるんです」
「その業務は所管外です」
相崎は決裁票を閉じた。
「選択肢は二つです。現状のまま受け取るか、返却申請を撤回するか」
三枝はすぐには答えなかった。
背後で、朝陽の回線がまだ生きている。
二人は画面を分割されても、互いを見なかった。
やがて三枝が言った。
「返してください。全部」
朝陽は所有持分放棄の電子署名を送った。
返却可。
それによって三枝には、共同購入分の精算義務も戻る。
端末が自動計算した請求額は、本体価格の半分と、取り消した新居の違約金の一部だった。
三枝の画面から顔が外れた。
朝陽の回線は先に切れた。
冷蔵庫は返る。
二人が国へ捨てさせようとした紙も、未開封の手紙も、請求も一緒に。
配送方法には、第三者倉庫での受領が選ばれた。
朝陽の現在地は三枝へ通知しない。
三枝の新住所も朝陽へ渡さない。
冷蔵庫だけが二人の間を移動し、互いの居場所は返却されない。
封筒は開けず、容器の底へ戻した。
三枝が受領後に読むか、捨てるか、朝陽へ転送するかは決裁の外側に残る。
「第一種、内容物を含め返却可」
相崎は返却欄へ押した。
ねむが密閉容器を戻し、最後に正面の付箋を押さえた。
「あさひへ」の「あ」の字で、人差し指が止まる。
相崎は白いドアに映った手の影だけを見た。
呼びかける代わりに、配送票の宛先をもう一度確認した。
水瀬朝陽。
別人のあさひ。
それでも冷蔵庫の低い共鳴は、扉が閉じた後もしばらく止まらなかった。




