第10話 葛西の心臓、再々出土
保留中の心臓が、冷凍保管庫から消えた。
容器も、封印票も、棚の霜だけを残してなくなっている。
消失から四十七秒後。
第十二ダンジョンの排出口で、同じ透明容器が回収された。
タッパーの中では、心臓が前より速く脈を打っていた。
「再々出土です」
ねむは監視映像を二つ並べた。
左では地下三階の棚から容器が薄くなり、背景へ溶ける。
右では第十二ダンジョンの床が盛り上がり、容器が押し出される。
映像の時刻は一致していた。
「同一個体?」
「封印票の繊維断裂、蓋の傷、内容物のDNA、全部一致。複製ではありません」
第一回は五年前の事故直後。
第二回は十日前、相崎が保留した午前便。
今回が三回目だった。
「保管庫に住民票を移す気はないらしいな」
「転出届は受理していません」
保管庫の低周波音が、一段抜けた調子で鳴っている。
相崎は空になった棚の温度記録を見た。
消失直前、零下二十度から三十七度まで一秒で上昇。
容器の中だけ、人の体温へ戻っていた。
第二則。
当人がもう一度欲した物を吐く。
葛西は十日前から返却を求め続けている。
それだけなら、保留中に何度でも出てくる可能性はあった。
だが、同じ心臓を同じ場所から再排出した前例はない。
欲求以外の条件が変わった。
「昨夜零時前後、葛西案件への外部照会は」
ねむが記録を絞る。
勤務先からの再審査要求。
医療機関からの検査予約。
遺失物課からは、前日のデンモク履歴保全。
危険物審査課との共同閲覧設定。
最後の二件だけが、五年前の事故記録へ触れていた。
「心臓ではなく、事故が欲しがられた」
ねむが言った。
「物が欲求を持つ規程はない」
「規程にない物ばかり届く部署です」
相崎は答えず、再排出によって自動解除された旧記録を開いた。
五年前の第一回回収票。
これまで黒く伏せられていた欄が、三度目の排出を理由に一部開示されている。
開示理由の承認欄には、課長の原印があった。
相崎が内線を入れると、蔵前は資料室から直接来た。
片手に古い紙台帳を抱えている。
「電子記録だけ見るな」
台帳の背には《二〇二一・暫定事故処理》。
公開版の編成表は五行。
紙原本には六行目がある。
ただし氏名欄は刃物で切り取られていた。
修正液でも黒塗りでもない。
紙そのものが、横一センチ、縦六センチだけ存在しない。
「誰が切ったんです」
ねむが断面を拡大した。
蔵前は答えず、電子版と紙原本の作成時刻を指した。
紙は事故当日の午前六時。
電子版は事故三日後。
電子版の作成者欄には、退職済み職員の番号。
その職員は作成時刻の前日に死亡している。
人が改ざんした証拠と、ダンジョンが欠落させたように見える証拠が、同じ原本に重なっていた。
「幽霊にも時間外勤務を付ける部署だったらしい」
蔵前の冗談は、ねむに無視された。
「課長は原本を知っていたんですね」
「知っていたことと、証明できることは別だ」
「今は証明できます」
「だから持ってきた」
蔵前は台帳を相崎の前へ置いた。
六行目の右端には、装備重量と資格番号の末尾だけが残っていた。
これも、デンモクと心臓の回収票に残る数字と一致する。
三つの独立した記録が、消された同一人物を示していた。
ねむは紙原本の背面へ斜光を当てた。
切り取られた欄の下にも、筆圧だけは残っている。
六行目は事故後に足されたものではない。
上の五行と同じ筆圧、同じ筆記具で、一続きに記入されていた。
装備貸出票の控えも取り寄せる。
呼吸器用カートリッジは六本。
帰還時の返却は二本。
破損回収が四本。
数だけなら、死亡四名、生還二名になる。
公開記録の「生還一名」と一致しない。
「六人目は、事故現場から戻っています」
ねむが言った。
相崎は二本の返却時刻を見た。
三十七分差。
同じ救助便で戻った者の記録ではなかった。
「この原本を証拠保全します」
相崎が言うと、蔵前は首を振らなかった。
「保全した瞬間から、あんたも調査対象だ」
「元からでしょう」
「自覚欄に丸を付けても、処分は軽くならない」
相崎は原本の封印票へ署名した。
《回収場所 第十二ダンジョン深層》
《対象 葛西修一・心臓》
《搬送者 事故班員》
氏名欄は空白。
職員識別番号の先頭と末尾だけが残る。
デンモクから出た欠損番号と並べると、一つの番号になった。
ねむが照会キーへ指を置いた。
「検索します」
「待て」
相崎の制止より、端末の方が速かった。
《旧探索者資格 一致》
《相崎悠人》
画面上で、自分の名前が五年ぶりの異物として表示された。
ねむが相崎を見た。
「主任が、搬送者」
相崎は回収票を閉じなかった。
「記録上は」
「公開された事故班名簿に、主任はいません」
「それも記録上は、だ」
相崎の旧資格番号は、デンモクに残った指紋識別とも一致した。
五年前の送別会。
第12層へ持ち込まれた端末。
事故現場から心臓を搬送した者。
二つの物証が、公開名簿から消えた一人を指している。
ねむは右耳へ手をやった。
今度は途中で止めなかった。
「なぜ、消えているんです」
相崎が答える前に、面談室から呼出音が鳴った。
葛西が来ていた。
予約時刻より一時間早い。
物流会社の制服を着て、車両キーを首から下げている。
「所在地は非公開のはずですが」
ねむが受付記録を確認した。
「十日前の通知書に、地下三階の内部搬送コードが残っていました。総務の誤植です」
「総務が初めて、誰かの役に立ったな」
「事故報告書が必要です」
葛西は強化ガラスの前へ座るなり言った。
『心臓を返せという申請じゃない。五年前の原本を見せろという申請です』
目的が変わっていた。
相崎は音声だけを入れた。
「根拠は」
葛西が古い紙をガラスへ押し当てる。
臨床死亡証明書。
右下に、搬送確認者の署名がある。
インクが滲み、姓の一字目しか読めない。
それでも、相崎の机にある回収票と筆圧の位置が同じだった。
『俺はあんたを知ってる』
葛西はガラス越しに相崎を指した。
『最初にここへ来た時は顔が出てこなかった。昨日、娘が昔の写真を持ってきた。端にあんたがいた。今朝見直したら、写真から消えてた』
相崎は写真の提出を求めた。
画面へ取り込まれた集合写真には、五人の探索者が並んでいる。
左端だけ、人の形に色が薄く抜けている。
肩へ置かれた隣人の手は、空中で止まっていた。
写真の欠損は、公開記録だけでなく、事故に関する物品からも相崎の参加事実が順に失われている可能性を示した。
「ダンジョンが消した?」
ねむが写真の欠損を拡大した。
「それなら、なぜ回収票には番号が残ったんです」
「完全には消せなかった」
葛西が割り込んだ。
『あんたが心臓を運び出したからだ。俺の心臓が、あんたを覚えてる』
人の記憶より、臓器の方が長く記録を保持した。
説明としては整う。
しかし相崎は写真の画像履歴を見た。
昨日の取り込み時点で、左端はすでに薄い。
葛西が「今朝消えた」と言う時系列と合わない。
取り込み履歴が崩したのは、今朝になって写真から消えたという葛西の記憶だった。
葛西の記憶自体が、現在も書き換わっている可能性がある。
「近接試験をします」
ねむが言った。
「危険です」
『やってくれ』
「返却試験ではありません。容器を隔離窓まで運び、身体反応を見るだけです」
葛西の同意署名が届く。
相崎は検疫職員を呼び、透明容器を面談室の二重扉へ運ばせた。
距離、三メートル。
葛西の胸部モニターは、これまで通り脈拍を検出しない。
二メートル。
タッパーの心臓が、葛西の呼吸に合う。
一メートル。
葛西の制服の名札から、会社名の印字が薄くなった。
五十センチ。
モニターに一本の脈が現れた。
同時に、葛西の臨床記録上の生存期間が、五年から四年十一か月へ減った。
「離せ」
相崎が命じた。
葛西はガラスへ手をついた。
『続けろ』
三十センチ。
生存期間が三年へ飛ぶ。
物流会社の社員台帳から、葛西の入社日が消えた。
画面の外から、子供の声が途切れた。
同行者名簿にあった娘の続柄欄が空白になる。
心臓が戻るほど、心臓なしで成立した五年間が順に失われていく。
検疫職員が容器を後退させた。
距離が一メートルを超えると、消えた記録は戻った。
娘の声も、面談端末へ戻る。
『お父さん?』
ただし、全部ではない。
物流会社の勤続年数は五年へ戻ったが、直近の無事故手当は再計算中のまま止まった。
娘の続柄欄は復元されても、緊急連絡先の優先順位が末尾へ移っている。
近づけた三十二秒だけで、二つの外部システムが変更を確定していた。
元へ戻すには、葛西本人と会社と親権者の訂正申請が要る。
ねむは試験記録へ《可逆性なし》を追加した。
返却しなくても、返却を試した事実は残る。
葛西はガラスについた自分の手形を見た。
返却すれば、身体が正常になるのではない。
異常なまま生きた時間の方が、誤りとして消される。
観測結果は、安全に統合できるという残りの可能性を退けた。
安全な統合はできない。
葛西はそれでも署名済みの返却同意を撤回しなかった。
『俺の時間です。消えるかどうかも俺が決める』
「娘さんの続柄も消えました」
『それを理由に、また国が決めるのか』
「国以外が決めても、消えるものは同じです」
相崎は四つの書式を机へ出した。
返却すれば、葛西は五年前の死者へ近づく。
保留すれば、職と正常な医療を失った状態が続く。
処分すれば、身体と事故証拠を国家が消す。
異議申立可としても、危険評価に必要な原記録を国が伏せている以上、本人に十分な判断材料は渡らない。
葛西本人の同意だけでは足りない。
その同意を作る記録が改ざんされている。
「第二種、再保留」
相崎は前回の決裁を踏襲せず、新しい条件を付けた。
「事故原本の開示審査。外部医師を含む統合試験。本人代理人の選任。この三件が終わるまで接触禁止」
「いつ終わる」
葛西の声はガラスを通しても低かった。
「期限は書けません」
「それを無期限というんだ」
相崎は印面を親指で撫でた。
一度。
紙へ下ろす。
印面が乾いた音を落とした。
決裁の送信と同時に、葛西の勤務端末が鳴った。
会社からの配置通知だった。
《運転業務から除外》
《倉庫内軽作業へ変更》
《基本給二十八パーセント減》
葛西は首から車両キーを外した。
面談台の返却口へ置く。
国が心臓を保留した日、葛西は大型車の運転席を失った。
命は残った。
その命で続けてきた仕事は残らなかった。
『事故原本を見つけたら、最初に俺へ見せろ』
「約束はできません」
『なら、またここへ来る』
葛西は娘の手を引いて退室した。
少女は一度だけ振り返り、検疫扉の向こうにある容器へ耳を向けた。
扉が閉まる。
ねむは机へ戻ると、公開事故名簿と第一回回収票を重ねた。
公開名簿は五名。
装備重量、指紋、搬送署名は六人分。
ねむは、同じ事故の医療搬送記録も照会した。
救急車は二台。
患者欄は葛西一人。
もう一台は走行距離と消毒記録だけがあり、搬送者名が空白だった。
搬送先の病院には、使用されなかった処置室の請求が残る。
空白の一人は、現場から出た後も行政記録の縁を歩いていた。
「主任は怪我をしていたんですか」
相崎は自分の左脇腹へ触れかけ、書類へ手を戻した。
「請求記録だけでは断定できない」
「では、本人に確認します」
「本人の供述は、物証の後だ」
ねむは質問票を新規作成した。
回答期限は今日。
宛先には相崎悠人。
身内の聴取を避けるため、担当者欄だけ空白にした。
相崎はその書式を却下しなかった。
「一人を消したのは誰ですか」
「公開記録を作った部署だ」
「質問を変えます。なぜ主任は、消されたことに異議を申し立てなかったんですか」
冷凍保管庫の低周波音が戻ってきた。
再収容された心臓が、棚の内側から扉を叩くように拍動している。
相崎は事故名簿を閉じ、一番下の引出しを開けた。
000001番の白紙ラベルは、また束の一番上にあった。
今度は、三つ折りの監査票が下に挟まっている。
旧式プリンターの出力履歴。
引出しの重量変化。
第三者受領意思照合。
三件の時刻が一枚に並んでいた。
《職員証DLB―三〇六一・初回認証》
《同職員・本人外返却の規程検索》
《同職員・近親者照合》
すべて、ねむが何かを取り戻そうとした瞬間に重なる。
「そのラベルは何です」
ねむが相崎の肩越しに訊いた。
相崎は品目欄を指で撫でた。
紙の下に文字の凹みがある。
光へ傾けても、まだ読めない。
「第一号案件」
「誰の」
「受付記録が欠けている」
「調べます」
返事が早すぎた。
ねむの手が右耳へ触れる。
白紙ラベルの角が、その動きに合わせるように一ミリ浮いた。
相崎はラベルを引出しへ戻さず、机上の透明な証拠袋へ入れた。
葛西の心臓。
消えた事故班員。
五年前の第一号案件。
別々の書式で保管されてきた三つが、同じ日付へ向かい始めている。
保管庫の低周波音が一段大きくなる。
タッパーの中の心臓は、誰かに返される時を待つように、透明な蓋を曇らせ続けていた。




