公園の決戦
ビルに囲まれた小さな街区公園は、オフィスを抜け出した会社員たちでそれなりに賑わっていた。
だけど、ベンチに腰掛ける一人の女性の周りだけ、まるで結界でも張られているかのように不思議な空間が広がっている。
遠目から眺めた先輩は、細くてスラリとした脚を落ち着きなく揺らしていた。
いつもならエリート社員たちと、一食数千円のテラスランチを優雅に楽しんでいるはずの人が、今はコンビニの緑茶のペットボトルを両手で握りしめて、所在なさげに地面を見つめている。
……あかん。緊張で胃に穴が空きそうだ。
エレベーターのボタンを何度か押し間違えて、行ったり来たりしたのは秘密にして、とりあえず待たせたことを謝らなくちゃ。
近づくと、俺はスーツの裾を整えて毅然とした態度で紗良さんに声をかけた。
「あ、あの、紗良さん。お待たせしました」
「ひゃいっ!?」
弾かれたように肩を跳ね上げた紗良さんは、聞いたこともないような変な声をあげた。
慌てて立ち上がろうとして、両手で大事そうに抱えていた緑茶のペットボトルをベンチの下へぽろりと落としてしまう。
「う、嘘、ちょっと待って……!」
コロコロと転がるペットボトルを追いかけようとして、今度は自分の足がもつれそうになっている。いつもオフィスでヒールを鳴らして颯爽と歩いているあの人が、完全に大パニックを起こしていた。
「す、すみません、俺が取ります!」
急いでしゃがみ込み、ペットボトルを拾って手渡すと、紗良さんはそれを両手で受け取りながら、ベンチにちょこんと座り直した。
上から覗き込むと、耳にかけた髪の隙間から覗く首筋まで、信じられないくらい真っ赤になっている。
「……もう、大輝くんのせいだからね。急に後ろから声をかけるんだから」
「正面から近づいたんですけど……」
「どっちでもいいの!」
ぷっと頬を膨らませて、完全に子供みたいな理屈で拗ねている。
いつもなら「大輝くん、お仕事終わったの?」なんて、大人の色気たっぷりに首を傾げてくる上司が、今は俺と目を合わせることすらできずに、ペットボトルのラベルを爪でカリカリと弄っていた。
何これ……癖になりそう。てか、ひゃいって言ったよな?ひゃいって。可愛いかよ。
「遅くなってすみません。ちょっと迷子になっちゃって……これ頑張って作ったんで、よかったら食べてみてください」
ハンカチに包まれたお弁当箱をそっとお披露目する。すると、紗良さんの視線がその包みに釘付けになった。緊張してるのか何なのか、潤んだ瞳が小刻みに揺れてる。
「…………本当に、作ってくれたんだ」
「お口に合うか、自信ないんですけど……」
「そんなに緊張した顔しないでよ。お口に合うかどうかは……今から私が、いっぱい味わって確かめてあげる。……だから、隣、座って?」
平静を装うツンとした口調なのに、体が無意識に引き寄せられている。距離感がオフィスの時より心なしか近い。ふわりと、あの甘い香りがまた鼻腔をくすぐった。
「では、お言葉に甘えて……」
そう言って、俺は紗良さんの隣に腰掛けた。
だけど、差し出したお弁当箱を紗良さんが受け取ろうとしたその瞬間、緊張した指が岩のように固まった。
あかん。思い出した。
この蓋の向こうには、あの朝のヤケクソの産物──オレンジ色の憎いあんちくしょうが、スタンバイしているのだ。
これからこのお弁当箱は紗良さんの手に渡り、紗良さんの手によって開けられる。
陽太の『世界が終わる』という言葉が、時限爆弾のカウントダウンみたいに脳内でうるさく鳴り響き始めた。
男の手作り弁当に、ハートの人参。
いくら「いっぱい味わって確かめてあげる」なんて言ってくれた紗良さんでも、引くか?
それとも重すぎて、ここで「ごめん、やっぱり無理」って走り去ってしまうか!?
「……大輝くん? 離してくれないと受け取れないんだけど……?」
上目遣いで不思議そうに言われ、ハッと我に返る。
緊張のあまり、お弁当箱を両手でガッチリとホールドしたまま差し出していたらしい。
「あ、す、すみませんっ!」
慌てて手を離すと、お弁当箱は紗良さんの細い膝の上へと収まった。
もう、俺の口から「ちょっと待った!」をかける猶予はない。賽は投げられたのだ。
紗良さんの白い指先が、お弁当箱の留め具にかけられる。
パカッ、と軽い音が響いて、プラスチックの蓋が持ち上がった。
「……、……っ」
お弁当箱を覗き込んだ紗良さんが、その場でピキリと固まった。
ふわりと広がるケチャップの甘い匂い。その中心で、やけに鮮やかな存在感を放っているオレンジ色の物体へと、彼女の視線がぐっと吸い寄せられていく。
間違いなく、朝の台所で死ぬほど悩んで、震える指でくり抜いたハートマークの人参だった。ハンバーグの真横に、これでもかと堂々と鎮座している。
紗良さんの丸くなった瞳が、弁当箱の人参と、俺の顔の間を何度もせわしなく往復した。
「だ、大輝くん。これ……っ」
「あ、いや!彩りを気にしたら、その、なんか型抜きがそれしかなくて……!!」
俺が慌てて手をブンブンと振って言い訳を並べると、紗良さんはすっと真顔になり、おもむろにパチン、とお弁当の蓋を閉じた。
「……よし。幻覚ね」
「幻覚じゃないです!!」
一度恐る恐る蓋を開けた彼女は、やっぱりそこにあるハートの人参を見て、
「……、……う」
小さな、押し殺したような声を漏らした。
今度は蓋を閉じなかったけれど、代わりに顔を真っ赤にして、お弁当箱を抱えたままぶるぶると震え始めている。
「紗良さん……? 引きましたよね、すみません。今すぐそれ、俺が食べま」
「だ、ダメ!!」
ひったくるように箸を持った紗良さんに、鋭く制止される。
「引いてない! 引いてないわよ! むしろその逆……逆っていうか……。もう、何言わせてんの!?」
真っ赤になった顔を隠すように、紗良さんはふいっと明後日の方向を向いてしまった。だけど、膝の上のお弁当箱だけは、まるで宝物でも守るように両腕でぎゅっと抱え込んでいる。
その必死な姿が、俺の頭の中をさっきからぐちゃぐちゃにしている。
「……あ、あの、紗良さん」
「な、なに」
「それ、俺の力作のミートスパゲッティも入ってるんで。冷めないうちにどうぞ」
「……え?」
紗良さんが驚いたように、ぱっと目を見開いてお弁当箱に視線を落とした。ハンバーグの陰に隠れていた、ツヤツヤと輝くスパゲッティを見つける。
「ミートスパゲッティ……。私、前にこれが一番好きって……」
「はい、小耳に挟んだので……。意識、しました」
「……じゃあ、いただくわね」
強がったお姉さん風の口調なのに、小さな唇が『あーん』と開くが、箸を持つ手元は少し震えている。ソースの絡んだ麺が、パクリと彼女の口に吸い込まれていった。
神様、どうか味が薄すぎたり、逆にゴリゴリに硬かったりしませんように……!
やがて、紗良さんの動きがピタッと止まった。
「……どう、ですか?」
返事の代わりに、紗良さんは黙ってもう一口、今度はハンバーグを頬張った。それから三口、四口。箸が止まらない。ようやく顔を上げた時、目尻がとろんと下がっていた。
「……ずるい。こんなの食べたら、もう会社のランチに戻れないじゃない」
「本当ですか……! よかった……」
へなへなと肩の力が抜ける。
そんな俺の様子を見て、紗良さんはクスッと愛おしそうに笑うと、再び箸を伸ばすのだった。




