弁当の華
自宅の台所、小さな弁当箱を目の前にして、俺は生唾を飲み込んだ。
「おい、おいおいおいおいおい…………」
奇跡的に酔いが覚めても、弁当のことは覚えていた。
そのせいか飛び起きたらなんと出勤の二時間前。ここまできたら……と腹を括って台所に立つまでは成功した。
卵焼きを作り、ハンバーグを焼いて、紗良さんを意識してミートスパゲッティも作った。
こりゃ、いけるかもしれない。っと意気込んだその時、彩りを気にしていたら最大の壁にぶち当たった。
「いや、気にしないだろ……いや、気にするか……」
自分でも思わず「どっちだよ!」っと突っ込みを入れたくなるくらい目線が行ったり来たりする。
弁当の華。
つまり問題は人参をハートマークにするか否かだ。
俺は意外と決断は早いタイプだ。でも、一度悩んでしまうとなかなか決められない。半ばうんざりとしながら陽太に救いを求めることにした。スマートフォンを手に取って、型抜きの写真を添付する。
じいちゃんにこんな姿をみられていたら、今頃きっと「気持ちは行動からだ」と叱られていたことだろう。
でも、陽太なら……きっといいアイデアをくれる。
その期待を胸に、返ってきたメールを開くと、とんでもなくふざけた内容が書かれていた。
『ハート一択。弁当を開いた瞬間、世界が終わる──』
「……………………ん?」
一瞬、目が点になって、そこから思考が徐々に追いついてくる。
「終わるなら、あかんやろがいっ!!」
おい待て待て。突っ込ませるな。ふざけてる場合じゃないんだよ、馬鹿野郎!!
つーか、これどっち?どっちが正解?「可愛すぎて世界がヤバい」的なオタクの構文か?それとも単なる打ち間違い?タイポ?タイポなん??これで失敗したら、あいつ一生呪ってやるかんな!!
ちきしょう、こうなったら押すぞ。押してやるからな!!
震える指先で、軽く茹でた人参に型抜きを押し込む。小気味いい音を立てて、綺麗なオレンジ色のハートがぽろりと落ちた。
それを見た瞬間、やけに心臓がバクバクと跳ね上がって、なんか目の前がくらくらしてきた。
「はーふぅ。何で俺がこんな人参如きに……んもう。なるようになっちまえ!!」
半ば強引にハンバーグの横に人参を添えて、弁当の蓋を閉じた。
♢
その後──。
勢いで出勤したものの、ビジネスバッグから目が離せない。キーボードで何文字か入力すると、再び引っ張られるように鞄に目がいく。
やばいな……こりゃ本当に仕事どころじゃない。
バレンタインの女の子ってこんな気持ちなのか??寿命が縮まるんだけど。
スペックの高い男とオシャレなランチに行っている紗良さんを、手作りの弁当で誘う。正気か俺、と脳内で警報が鳴り響く。
そわそわとそれを何度か繰り返していると、背後から近づいてきた気配がデスクの上に影を落とした。
「なにソワソワしてんの、大輝くん」
弾んだ声が鼓膜を揺らす。同時にふわりと甘い香りが鼻腔をかすめた。振り返ってみると、そこには不思議そうに覗き込む紗良さんがいた。
ゆるく巻かれた茶髪を耳にかけて、意地悪に問いかけてくる。
「ねえ、さっきからカバンばっかり見てるわよね? 中にすごいお宝でも隠してるの?」
「べ、別に、お宝ってほどでは……」
「へー図星ね。すごく気になるわ」
その疑い深い眼差しに、冷や汗でシャツがベタつく。緊張のあまり、喉の奥がカラカラに干からびそうだ。
「紗良さん、ちょっと今日のお昼空いてますか?」
「お昼?いいわよ。ご飯食べるくらいしかやることないから」
「いや、そうじゃなくて……。弁当作ってきたんですけど……」
「…………え!?私に?」
「はい、お口に合うかわかんないんですけど……」
紗良さんはパチパチと瞬きを繰り返し、完全にフリーズした。いつもは涼しげなその瞳が、今はこれ以上ないほど丸くなっている。
その様子をみてるだけで、なんだか顔面に血が上ってくる。あつい。焼けるようにあつい。なんでもいいから今すぐリアクションをしてくれ。
「い、いや、その……昨日飲み会で弁当の話になって、勢いで。つい……」
「……っ、ふーん。じゃあ、さっきからお弁当が気になってたの? いつ渡そうかなって、さ、紗良さんこないかなぁーって?」
からかうようなセリフのわりに、紗良さんの声は少し上ずっている。なんなら、ピアスが揺れる耳たぶまで真っ赤だ。
俺は必死に首を振った。
「そ、そんなんじゃないです!!堂々としてました!!」
「そうね、堂々としてたわよね……」
彼女は小さな声を漏らし、逃げるように目線を泳がせた。
俯いた彼女の長い睫毛が、細かく震えている。いつもなら絶対に見せないような、少女みたいに照れくさそうな横顔。
耳の奥がじんと熱くなる。
間が強く引っ張られて、口から何かが飛び出すんじゃないかと思うほど、その瞬間が淡く焼きつく。
「……、……」
「ダメですか?」
恐る恐る尋ねると、紗良さんは「……っ」と息を詰まらせ、両手で顔を覆ってしまった。
「……これ、他の人にもやってるの?」
「え? いや、紗良さんだけですけど……」
「……っ、……そう」
「……もしかして照れてますか?」
不思議そうに覗き込もうとすると、手のひらが目の前まで伸びてくる。
「あまり見ないで。先輩としての威厳が台無しじゃない。次からは心の準備くらいさせなさいよね。……もう。今日は天気もいいし、お昼になったら下の公園で待ってるから。絶対だからね!」
視界が開けると、嵐のような気配を残して紗良さんはパタパタと自分のデスクへと戻っていった。
「……、……あ」
緊張の糸が切れた瞬間、椅子の背もたれに深く沈み込む。
背中には嫌な汗でシャツがびっしょりと張り付いていた。
本当に誘ってしまった。しかも、あの高嶺の花の紗良さんが、耳まで真っ赤にして「下の公園で待ってる」と言ったのだ。
じわじわと実感が湧いてくるにつれて、朝とは違う恐怖が背筋を駆け上がってくる。
もし、口にあわなかったら?味が濃かったらどうしよう。
それに……あのヤケクソで詰めたハートの人参。俺は一体どんな顔で渡せばいいんだ。
自分の机の上の一点を見つめたまま硬直していると、スマートフォンの画面が光った。
『おい、マジでやりやがったな勇者』
陽太からのメッセージ。見ると、少し離れた席から、声を出さずに口の動きだけで『ナ・イ・ス』と告げ、ガッツポーズから親指を立ててみせる陽太の姿があった。その顔は、いたずらが大成功した子供のようにニヤニヤと歪んでいる。
続いて着信が鳴る。
『一ノ瀬先輩、顔真っ赤だったぞ。お前の弁当作戦だいぶ効いてるな、ありゃ』
『効きすぎてこっちの寿命が3年縮んだ。もしお口に合わなかったらお前の席の引き出しにハートの人参全部ブチ込むからな』
『知るかよ、応援はしてやるから、玉砕してくんなよ相棒』
陽太の軽いノリに救われつつも、時計の針が進むスピードは信じられないほど遅かった。
キーボードを叩く指先が、心なしかずっと震えている。書類の文字は右から左へと通り抜け、頭の中は「紗良さん」と「弁当箱」のことで完全に支配されていた。
——そして。
社内に、お昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
周囲の社員たちが一斉に席を立ち、財布を手に取り始める。
「……よし」
と小さく、自分に気合いを入れるように呟いて、俺はビジネスバッグのチャックを開けた。
中に鎮座する、少し不格好な包み。
それをしっかりと手に抱え、俺は下の公園へと歩き出した。




