怪しい買い物
あの甘い時間は、一体何だったのだろう。
お弁当は綺麗に完食してもらい、午後からの仕事は「紗良さんに手作り弁当を食べさせた男」という全能感で、正直めちゃくちゃ調子に乗っていた。
すっかり良い気分になった俺は、思いっきり残業になったのにも関わらず「今夜は一人祝杯だ」と、自宅近くのスーパーへ発泡酒を買いに走った。
時刻は夜の九時過ぎ。カゴに缶ビールを放り込み、レジの方へ目を向けたその時、俺の動きがピタリと止まった。
「……え?」
会計を済ませて袋詰めをしているのは、見間違うはずのない茶髪の女性──紗良さんだった。
だけど、いつもオフィスで見せる、あの華やかで洗練された雰囲気とは何かが違う。
深いフードをすっぽりと被り、まるで見つかるのを恐れるように周囲をキョロキョロと見回している。その手には、先ほど買ったばかりであろう発泡酒の缶がいくつか入ったビニール袋。
いつもなら絶対に声をかけるところだけど、そのあまりに不審なオーラに、俺は思わず物陰に身を隠してしまった。手にしたカゴをそっと棚の脇に置き、息を殺して様子を窺う。
紗良さんは足早にスーパーを出ると、大通りとは逆の、街灯の切れた薄暗い裏路地へと迷いなく入っていく。
「な、なんだ……? 何が始まるんだ……?」
喉の奥がきゅっと締まって、別の意味で息が浅くなった。好奇心と、妙な胸騒ぎに突き動かされ、俺は足音を消して彼女の後を追った。
ひんやりとした路地裏の奥。自販機の鈍い光だけが届く行き止まりで、紗良さんは足を止めた。
俺は自販機の陰に隠れて様子を伺う。
そこには、あらかじめ待ち伏せていたと思われる、一人の少女。
少女は夜だというのに、やけに目立つ派手な衣装を身に纏っていた。フリルがふんだんにあしらわれた、まるでアイドルのようなステージ衣装。だけど、その手には彼女の身の丈ほどもある大きな杖が握られている。
「……遅いですよ、紗良」
「ごめん、メルちゃん。仕事が長引いちゃって……。はい、これ約束のもの」
紗良さんはフードを深く被り直しながら、先ほどスーパーで買ったばかりのビニール袋を少女──『メルちゃん』へと手渡した。
メルちゃん。
その名前に、俺の脳裏がバチリと火花を散らす。
──『これから帰ってメルちゃんの生配信見たかったんだけど』
──『お前はいいよなダンジョンに興味ないから。てかそろそろ興味持てよ、景色が変わるぞ』
昨夜、居酒屋で陽太が熱弁していた、あのトップダンジョン配信者のメルちゃんか!?
「ぷはぁー! 生き返るわー!」
……え?
俺の思考をぶち破ったのは、およそ目の前の可憐な少女からは似つかわしくない、ドスの効いた濁声だった。
見れば、メルちゃんは袋から取り出したばかりの発泡酒のプルタブを、可愛らしいフリル袖のついた手で見事に弾き開けていた。しかも、あの杖の先端を絶妙な角度で地面に突き立て、まるで立ち飲み屋のカウンターのように片肘を預けている。
「いやー、今日の深層ボスはマジで硬くてさ。さすがに喉乾きまくり。やっぱダンジョン帰りの一本はこれに限るよねぇ!」
「ちょっとメルちゃん、声が大きい! 誰かに見られたらどうするのよ……!」
慌てて周囲を気にする紗良さんをよそに、メルちゃんは「クゥーーッ!」と喉を鳴らしながら、これでもかと勢いよく缶を傾けている。完全に中身はオヤジのそれだ。
ゴキュ、ゴキュ、と良い音を立てて半分ほど一気に煽ると、彼女は手の甲でガサツに口元を拭った。
「ぷはっ、んめぇ……! 紗良、これ新商品のやつ? 糖質オフの割にキレがあって合格」
「良かったわね。……って、感心してる場合じゃないわよ! あなた、一応『奇跡の14歳・現役中学生ダンジョン配信者』で売ってるの忘れたの!?」
「あー? 実年齢は24の立派なアラサーなんだから、酒くらい飲ませろっての。誰も見てない裏路地なんだからさぁ」
「だから! 見た目が完全に中学生なんだから、ここで缶ビール持ってるところを写真にでも撮られたら一発アウト、即炎上じゃない! 」
メルちゃんの正体は、合法どころか完全に成人済みの24歳!?しかし、その天性の幼い容姿を活かして「中学生配信者」として売り出し、大ブレイクしたトッププロだったのか……。
「いーじゃん減るもんじゃなし。こちとら命がけで配信してんだから、これくらいのご褒美がないとやってらんないっての。隠蔽魔法もかけてるから心配ご無用〜!!」
そう言って、メルちゃんは残りの発泡酒をぐいっと飲み干し、小さくゲップを漏らした。
「国家クラスだから外で魔法が使えるっていっても、この使い方は感心しないわね……」
「そう??私的には十分満足してるけど」
自販機の影で、俺は完全に石化していた。
陽太。お前が昨夜、「メルちゃんは現代に舞い降りた奇跡の美少女、汚れなき聖女」と涙ながらに語っていた配信者は、今、俺の目の前で発泡酒の空き缶をベコッと握り潰している。24歳のアラサーが、中学生のコスプレをして。
そして何より。
会社では誰もが憧れるマドンナであるはずの紗良さんが、なぜかその「オヤジ系トップ配信者」の買い出し係になっているという、あまりに濃すぎる現実。
昼間の、あの心温まる手作り弁当の思い出が、シュワシュワと音を立てて発泡酒の泡の中に消えていく気がした。
「で、今日は何の用事なの?配信者にはならないってはっきり断ったはずだけど」
「そんな冷たいこと言わないでよ、紗良。ただのOLなんてつまらないでしょ。お金はガッポリ稼げるわよ?実力があるんだから絶対売れるし!居場所も保証するよ?」
「……魅力的な話だけど、やっぱりパス。私、今はただの事務職だもの。ブランクもあるし、もう命を張るような戦いからは降りたの」
「チェー、相変わらずお堅いねぇ。ま、気が変わったら連絡してよ。権利書のコピー、一応メッセージで送っとくから」
メルちゃんは二缶目の発泡酒をぐいぐいと喉に流し込み、ベコッと空き缶を握り潰した。その姿は完全に仕事終わりのオヤジだが、纏っている空気の密度が、一瞬で変わる。
「さてと。それじゃあ紗良、付き合ってもらったお礼に、ちょっと面白いもの見せてあげる。実は時限ダンジョン、もうここに持ってきてるんだよね」
「え? ここって……まさか」
紗良さんが息を呑む。
メルちゃんはニヤリと不敵に笑うと、手にした大きな杖を、路地裏のコンクリートの地面にコツンと打ち鳴らした。
その瞬間、自販機の鈍い光が掻き消えるほどの、圧倒的な黄金の魔力が路地裏に満ちた。
メルちゃんが杖の先で、すぐ横にそびえ立つ雑居ビルのコンクリートの壁をピッと指し示す。
「次元穿孔──なーんてね。さぁて、お待ちかねの二次会といこうか!」
ジュワッ、と空間が焦げるような音が響いた。
見上げると、ビルの退屈なグレーの側面が、まるで水面に油を落としたように歪み、波打っている。コンクリートの壁に、突如として禍々しくも美しい、金色の模様が浮き上がってきた。ビルの壁に、異界への入り口が無理やりこじ開けられていく。
「ちょっとメルちゃん!? こんな街中で時限ダンジョンを展開するなんて正気!?」
「いーじゃん、隠蔽魔法は完璧だって。ちょっと中の空気吸ってくるだけだから! ほら、行くよ紗良!」
「きゃっ!? ちょっと引っ張らないで!」
メルちゃんはフリル袖の腕で紗良さんの手首を掴むと、小さな体からは想像もつかない力で、ビルの壁面へと飛び上がった。
二人の身体が、現実の壁をすり抜けるようにして、渦巻く光の奥へと吸い込まれていく。
「あ……、おい、待てっ……!」
自販機の陰から、俺は思わず飛び出していた。
昼間の甘い記憶も、目の前で起きたアラサー中学生配信者の衝撃も、すべてが吹き飛んでいた。ただ、いつも会社で見せている紗良さんの華奢な背中が、見たこともない危険な世界の闇に消えていくのを、黙って見ていられなかった。
心臓がバクバクと警鐘を鳴らす。
正気じゃない。一般人の俺が、トップ探索者の足跡を追うなんて自殺行為だ。
だけど、足は止まらなかった。
「クソっ、どうにでもなれ……!」
買い物のことなど完全に忘れて、二人が消えたビルの壁面へと全力で駆け出した。
歪む空間が、徐々に閉じようと縮んでいく。
その光の裂け目に向かって、俺は思い切り手を伸ばし、飛び込んだ──。




