【第4話】 『聖域』の朝は、命がけの回覧板から始まる
極上のジビエ鍋を堪能した翌朝。
最果ての菜園は、神様特製の清々しい朝日に包まれていた。
昨夜、ノアの「ひと鳴き」によって領地が周囲10メートル拡張されたわけだが……当然、広がった場所はまだ手つかずの鬱蒼とした森のままだ。ボコボコした地面には雑草が茂り、大きな木も何本か立っている。
「よし、領地が広がったぶん、まずはフェンスを外側に組み直して、それからトマトとジャガイモのエリアを広げるか」
俺がクワと工具を手にログハウスを出ると、すでにテラスの前では、竜人族の美少女・ルリが直立不動で待機していた。
「おはようございます、主殿! 本日の御用命を!」
彼女の琥珀色の瞳は、心なしか昨日よりもさらにギラギラと輝いている。昨夜、ワイルドボアの肉を食べたことで、彼女の中の「神界の弱肉強食」という設定が完全に定着してしまったらしい。
「おはよう、ルリさん。じゃあ、まずはあの簡易フェンスを10メートル外側にずらして、新しく手に入った土地の木や岩をどかす作業をお願いできるかな?」
「御意! 聖なる大地の結界の再構築、および障害物の排除ですね。このルリ, 命に代えても!」
ルリはそう叫ぶなり、地面に深く刺さっていた木製のフェンスを「ふんっ」と片手で引き抜き、軽々と外側へ移動させ始めた。さらに、新エリアに生えていた大木を素手でバリバリと引き抜き、転がっていた巨岩を小石のように放り投げていく。もはや重機より早い。
(うん、相変わらず話は通じてないけど、開拓の手間が省けて本当に助かるな……)
俺が苦笑いしながら、ルリが更地にしてくれた場所をクワで耕し始めていると、足元で「わふっ」と短く声がした。
「あ、ノア。おはよう、よく眠れたか?」
「きゅ~ん!」
ノアは尻尾をちぎれんばかりに振りながら、俺の脛に頭をすり寄せてくる。
昨夜、Bランク魔獣を一瞬で卒倒させた『魔王の覇気』の持ち主とは到底思えない、最高に愛くるしい俺の相棒だ。
「ノア、今日もルリさんの見学をしながら、のんびりやろうな」
「わんっ!」
俺がノアを抱き上げ、フカフカの毛並みを堪能していると――。
ふと、新しく広げたフェンスの向こう側の森から、ガサゴソと怪しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――っ! 主殿、下がってください! 敵襲です!」
超感覚を持つルリが即座にクワを構え、背中の漆黒の翼を鋭く羽ばたかせる。
ノアもまた、俺の腕の中で「なんだろう?」と小首を傾げた。
フェンスの向こう、鬱蒼とした木々の隙間から姿を現したのは、粗末な革鎧を身にまとった一人の男だった。
その手には……なぜか、木製の板のようなものが握られている。
(ま、魔獣じゃない? 人間……か?)
陣が目を丸くしていると、その男は菜園の様子、特に大木を素手で引き抜いている竜人族のルリと、その奥で平然と佇む陣の姿を見た瞬間、ガタガタと生まれたての子鹿のように膝を震わせ始めた。
男の正体は、この森の遥か手前にある人間の開拓村の村人だった。
昨日、村の周辺を荒らしていた凶悪なBランク魔獣『ギガント・ボア』の気配が、この「最果ての地」で一瞬にして消滅したのを感知し、調査(という名の決死の御挨拶)に遣わされたのだ。
男の脳内は、すでにパニック寸前だった。
(ひ、引き返したい……今すぐ逃げ出したい……! 噂には聞いていたが、なんだここは……!? 禍々しいほどの神聖な魔力(※神様の結界です)が満ち満ちている……! それに、あの開拓をしている女は、一国を滅ぼせるという伝説の【竜人族】の戦士ではないか……っ!?)
ルリの放つ圧倒的な殺気に、村人の男は涙目を浮かべる。
しかし、男の視線が、陣の腕の中にいる黒柴の子犬へと移った瞬間、彼の心臓は恐怖で完全に停止しかけた。
(な……ななな、何だ、あの黒い獣は……!? 見た目は小さくて愛らしいが、あの一瞥……! まるで世界の終わりそのものに見つめられているような、底知れないプレッシャーだ……!!)
ノアがただ「あ、人が来た」と見つめただけの純粋な視線は、村人にとっては【神の審判】に等しかった。
「あの、すいませーん! どなたですかー?」
陣がフェンス越しに、できるだけフレンドリーに声をかける。
しかし、その声すらも、男にとっては『逆らえば一瞬で塵にされる神託』に聞こえていた。
「ひ、ひえぇぇぇ……っ! お、お命ばかりは、お命ばかりはお助けをぉぉぉ!!」
男はドサッとその場に五体投地し、泥に頭を擦り付けた。
「えっ!? い、いや、何もしてないのに何で!?」
慌てる陣を余所に、男は震える手で、持ってきた木製の板をフェンスの隙間から差し入れた。
「こ、これは、我が村の【回覧板(周辺の魔獣警戒情報)】にございます……っ! 決して、決して貴方様の聖域を侵す意図はございません! 新たなる山の神への、ご挨拶に伺った次第でありますぅぅ!」
「あ、回覧板……。へぇ、この世界にもそういうのあるんだ」
陣が感心して受け取ると、男は「ヒィッ!」と短い悲鳴を上げ、
「失礼いたしますぅゥゥ!!」
と、脱兎の如き勢いで森の奥へと走り去っていった。あまりの速度に、後ろには砂煙が舞っている。
「……行っちゃったな。こっちの人間って、ずいぶん距離感が極端というか、シャイなんだなぁ」
「(な、なんと……。一瞥しただけで、偵察に来た愚かな人間を平伏させ、貢ぎ物(回覧板)を差し出させるとは……! さすがは主殿、恐るべき支配力です……!)」
ルリは感動のあまり、クワを握りしめたまま再び涙ぐんでいた。
「さてと、ノア。どれどれ、何が書いてあるのかな?」
「わふん?」
陣が貰った回覧板を開くと、そこにはこの最果ての森に生息する、様々な危険魔獣のリストと、その素材の『美味しさ』や『価値』が、ギルドの警戒情報としてびっしりと書かれていた。
もちろん、陣にとっては「新しい料理のレシピ本(ジビエ編)」にしか見えなかった。
「よし、ルリさん。今日の開拓作業が終わったら、この回覧板に載ってる『激ウマ』って書かれてる害獣の対策でも考えようか」
「御意にございます、我が主殿! 世界の胃袋を満たす御為、このルリ、どこまでも従います!」
「きゅ~~んっ!」
こうして、陣の預かり知らぬところで、命からがら逃げ帰った村人の心に「最果てに恐るべき神の聖域がある」という絶対的なトラウマが刻まれた。
世界がその存在に気づき、大騒ぎになるのは……もう少しだけ先のお話である。




