現実世界④おねだりとお胸の話
その日の夜は、パパとママとひよりの三人で、賑やかに食卓を囲んだ。
平日の夜にパパが一緒に夕食を食べられるなんて、普段は滅多にないことだ。ひよりのために仕事を無理やり切り上げてきてくれたパパは、嬉しそうに目を細めた。
「ハハっ。明日は仕事で帰りがかなり遅くなるかもな。今日はほとんど放ったらかして飛び出してきちゃったよ」
パパはそう言って、愛おしそうにひよりの頭を何度も優しく撫でる。
ママは「まぁ、お父さんったら」と言って、呆れつつも嬉しそうに微笑んだ。
パパはしみじみとした口調で、ひよりを真っ直ぐに見つめる。
「でも、本当にひよりが無事でよかったよ。パパ、生きた心地がしなかったんだぞ」
「ふふ、パパったらまた同じこと言ってる。昨日病院でもずーっと言ってたじゃん」
ひよりがくすくす笑うと、パパは真剣な顔で身を乗り出した。
「それくらい、ひよりが大切だってことだよ」
「そうよ、ひより。ひよりは私たちの宝物なんだからね」
ママまで一緒になって真顔で言うものだから、ひよりは急に気恥ずかしくなってしまった。
「うー、もう二人とも大げさだなあ。……うーん、ありがとう。――あ、そうだ! ママ、いっしょに川に落ちちゃった子猫ちゃん、どうなったの?」
照れ隠しに声を弾ませて尋ねると、ママは優しく頷いた。
「まだ動物病院に預かってもらっているわよ。怪我もなくて元気にしてるって」
その言葉を聞いた瞬間、ひよりの目がきらきらと輝き出した。ベッドの上でキュアと話していた「楽しいこと」が、頭の中で一気に形になっていく。
「ねえ、飼いたい! わたし、あの子猫ちゃん飼いたいな!」
身を乗り出してママにお願いする。
「うーん、ママはいいけれど……パパがいいって言ったらね」
ママはいたずらっぽく笑って、パパの方をアゴで示した。
ひよりはすぐにターゲットをパパへと切り替える。椅子からずり落ちるようにしてパパの隣へと駆け寄り、その袖を小さな手でぎゅっと握りしめた。そして、上目遣いでパパの顔をじっと見つめる。
「パパァ……お願い。あの子猫ちゃん、お家に連れてきてもいい? わたし、ちゃんとお世話するから……だめ、かなぁ……?」
10歳の本気のおねだり攻撃だ。声をワントーン落として、健気に、そしてとびきり可愛らしく甘えてみせる。
その瞬間、パパの顔は見事なまでにデレデレになって、完全にノックアウトされた。
パパは、締まりのない笑顔で激しく何度も頷く。
「いいよ! ひよりがそこまで飼いたいなら、パパが何でも許しちゃう! よし、さっそく準備をしよう!」
「わーい! パパ、ありがとう、大好きっ♡」
ひよりがパパの首にしがみついて喜ぶと、パパは
「ハハハ、パパも大好きだよー!」
と、もう完全にメロメロだ。
現実世界の優しいパパとママ、そして新しく家族になる子猫ちゃん。温かい幸福感に包まれながら、ひよりは左手首のブレスレットをそっと撫でた。
(キュア、子猫ちゃんをお家で飼えることになったよ!)
心の中で嬉しそうに報告するひよりに、キュアも頭の中で
「よかったね、ひより。これで現実世界でも、毎日猫に癒してもらえるね」
と、優しい口調で一緒に喜んでくれるのだった。
パパとの甘いおねだりタイムがひと段落した後、パパは嬉しそうに鼻歌を歌いながら食卓を立ち、ひよりを振り返った。
「よし! それじゃあひより、パパと一緒に一番風呂に入ろうか。今日はたくさんお話ししたいこともあるしな!」
いつもなら「わーい!」と喜ぶはずのひよりだったが、今日のひよりは少しだけバツの悪そうな顔をして、そっと首を横に振った。
「ううん、パパ。わたし、今日はお風呂いいや。後でママと一緒に入るから、パパ先に入ってきて」
「えっ、そうなの? パパ、ちょっと寂しいなぁ……」
ガックリと目に見えて落ち込みながら、パパはトボトボとお風呂場へと向かっていった。
パパの姿が見えなくなったのを見計らって、ひよりは食卓の片付けを始めようとしたママの袖を、ちょんちょんと引っ張った。
「ねえ、ママ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「あら、なぁに? ひより」
ママが不思議そうに足を止めると、ひよりは周囲をキョロキョロと見回してから、声を潜めて真剣な顔で尋ねた。
「あのね……普段、お胸を隠す方法って、どうやるの?」
「えっ?」
予想もしなかった10歳の娘からの質問に、ママは思わず目を丸くした。
「お胸を隠す方法? どうして急にそんなこと気にするの?」
「だって……ママ、すっごくお胸が大きいじゃない? だから、わたしも大きくなるの確定だから、今のうちに隠し方を知っておかなきゃいけないなと思って」
ひよりは、異世界で出会ったシャリンの豊かな胸や、20歳の大人の姿になった自分自身の抜群のプロポーションを思い出していた。あっちの世界で大人の身体になった時、あまりの変わりっぷりにすごくドキドキしたのだ。現実世界の10歳の今のうちから、心の準備をしておかないと大変なことになる。
ひよりのあまりに大真面目な顔と「爆乳確定」という独特な予言に、ママは一瞬呆気にとられた後、お腹を抱えてくすくすと言葉を漏らした。
「ふふっ、まぁ。ひよりはそんなことを心配していたのね。確かにママの家系はみんな大きいけれど……でも、まだ10歳なんだから焦らなくて大丈夫よ?」
そこへ、脱衣所でシャツを脱ぎかけていたパパが、リビングの会話を小耳に挟んだらしく、浴室のドアからひょっこりと顔を出した。
「なんだなんだ? ひより、お胸の話なんてしてどうしたんだい? パパはね、ひよりは今のままのちっちゃくて可愛い姿が一番いいと思うぞ。そのままがいいよ!」
パパは相変わらずのデレデレな笑顔で、呑気にそんなことを言い残してお風呂場へと消えていった。
ひよりがぷくーっと頬を膨らませるのを見て、ママはくすくすと笑いながら、ひよりの目線に合わせてそっと屈み込んだ。
「ふふ、パパったら本当に呑気ね。でも、ひよりがそんなに真剣に心配しているなら、ママが具体的に教えてあげる」
ママはひよりの小さな手を包むように握ると、優しく語りかける。
「やっぱりね、いいブラジャーを選んだり、ホールド感のある服を着たりすると、お胸がしっかり固定されて揺れなくなるの。そうすれば、動くときも全然気にならなくなるわよ」
「……ホールド感のある服?」
聞き慣れない大人の言葉に、ひよりはパチパチと目を瞬かせた。ママは分かりやすく説明を続ける。
「そう。お胸をきゅっと優しく支えてくれるお洋服のことよ。今はまだ10歳だから必要ないけれど、ひよりがもっと大きくなったら、ママが一緒に一番良いものを選んであげるからね」
「うん……! ママ、ありがとう!」
ママの具体的なアドバイスを聞いて、ひよりはすごく安心した。
と同時に、頭の中では異世界のハラハが「型紙なしでも完璧に把握した」と言って仕立ててくれている特別な服のことが思い浮かんでいた。
(そっか……ハラハさんの作ってくれるお洋服も、ホールド感っていうのがちゃんとあるのかな?)
そんなひよりの疑問を察したのか、左手首のブレスレットから、キュアが脳内で楽しそうに話しかけてきた。
(あはは、きっと大丈夫だよ。ハラハは一流のテーラーだからね、ひよりの体を一番きれいに、動きやすく支えてくれる服を仕立ててくれているはずさ。明日あっちに戻って着てみるのが、ますます楽しみになったね)
キュアの優しい口調に、ひよりは心の中で
「うん!」
と強く頷いた。
お風呂場からはパパの朗らかな鼻歌が聞こえてくる。現実世界の温かい家族の知恵と、明日から始まる異世界の新しいお洋服へのワクワクを胸に、ひよりの心は未来への期待でいっぱいに満たされるのだった。




