現実世界③新しいお洋服
大人の難しい理屈や張り詰めた空気からひよりを全力で守り抜き、ようやく二人の大人が退室すると、ママはホッとしたように大きなため息をついた。
それから、まだ少し怯えの名残でこわばっているひよりを安心させるように、ベッドの空いたスペースに体を滑り込ませて、優しく添い寝をしてくれた。ママの温もりとトントンという優しい手のひらのリズムに包まれているうちに、ひよりの強張っていた身体はすうっと解きほぐされていく。
夜になりママの規則正しい寝息が聞こえ始め、完全に部屋が静まり返ったのを見計らうように、左手首のブレスレット――キュアが心の中にそっと語りかけてきた。
「……ひよりのママ、本当にかっこいいね。我が子を守るために大人の盾になる姿、ボクちょっと感動しちゃったよ。でもさ……」
キュアは頭の中でふふっと小さく悪戯っぽく笑う気配を見せた。
「ママは『こころの検査が必要だ』なんて言っていたけれど、本当に検査が必要なくらい心がびっくりしているのは、あの川の底の恐怖だけじゃなくて、あっちの世界での大興奮の連続かもしれないよ?」
「え……?」
ひよりが心の中で小首を傾げると、キュアはこれまでの冒険を愛おしそうに数え上げるように言葉を紡いだ。
「だってさ、ひよりが初めて異世界ハーティにやってきてから、まだろくに時間なんて経っていないのに……いきなり凶暴な魔獣に襲われて、それを魔法で倒したと思ったら、今度は門番のお兄さんに呼び止められて、そのままギルドのお使いを頼まれて。それから、シャリンさんの魔道具店を覗いたり、近道って言って裏路地で冒険したり、サーシャちゃんのおうちに行ったりしたよね」
キュアに言われて、ひよりの脳裏に異世界の色彩豊かな景色が鮮明に蘇る。
「その後、迷子になって、怪しい人について行って危うく監禁されそうになったり、お祭りのアシスタントとして無自覚にたくさん魔力を回し続けたり……最後はシャリンさんと魔導薬湯のお風呂に入ってさ。本当に、目が回るくらい目まぐるしくて、濃密な出来事ばっかりだったじゃない」
「……あ、本当だね。わたし、すっごくたくさんのことをしてたんだ……」
あまりに夢中で駆け抜けていたから実感がなかったけれど、キュアに言われて初めて、自分がどれほど濃い時間を過ごしてきたのかを思い知らされる。普通の10歳なら、最初の魔獣の時点で泣き出して逃げ出していてもおかしくないはずだ。
「そうだよ。だからね、ボクはそんなたくさんの出来事を一生懸命乗り越えて、現実世界に戻ってからも真っ先に子猫を助けたひよりのことを、本当に強い女の子だと思うんだ。ひよりは、ボク自慢の魔法使いだよ」
鈴の音のように澄んだキュアの声が、温かくひよりの心に染み渡っていく。
ママの温もりと、キュアの優しい言葉。二つの世界でそれぞれ自分を支えてくれる大切な存在を感じながら、ひよりは明日からの新しい冒険とサーシャのリメイクの服とハラハの特別な服を楽しみに、今度こそ深く、心地よい眠りの中へと瞳を閉じるのだった。
次の日、病院でこころのカウンセラーとじっくり話をした後、ひよりの精神面には特に問題がないと判断された。体の方も、幸いなことに軽い打撲程度。いくつかの青あざにシップを貼られただけで、ひよりはその日のうちに無事、退院できることになった。
正直なところ、ひより自身は異世界「ハーティ」で経験した数々の出来事に比べれば、トラックにはねられて川に落とされたことなんて大したことはない、とさえ感じていた。
夕方には、懐かしい我が家へと戻ることができた。
夕食までの間、ひよりは自分の部屋のベッドをごろりと転がり、誰にも見られないように左手首のブレスレット――キュアにそっと語りかけた。
「……ねえキュア。わたし、トラックよりも最初の魔獣の方がずーっと怖かったよ」
ひよりの心の中の呟きに、キュアは脳内でふふっと苦笑しながら、優しい口調で応じる。
「あはは、確かにあの魔獣は迫力あったからね。でも、これからあんな魔獣を簡単に狩れるようにならないとね。ひよりはこれから、もっともっと強くなっていくんだよ」
「えー、嫌だな。わたし、本当は戦いたくないもん」
ひよりがベッドに顔をうずめて不満を漏らすと、キュアは少し困ったような声を上げた。
「困ったなぁ……ひよりが戦ってくれないと、あっちの異世界が魔獣に押しつぶされてしまうよ?」
「だって、怖いの嫌だもん。ハラハさんの作ってくれるお洋服とか、お祭りのアシスタントみたいに、楽しいことだけ大人の姿でやるのがいいな」
10歳の少女としての素直な本音。それを聞いたキュアは、内心で(……まあ、今はまだいいか)と息を吐き、それ以上の無理強いはしなかった。焦らずに、少しずつ慣れていってもらえばいい。
「わかったよ、ひより。楽しいこと優先でいいからさ。でも、あっちの世界の冒険だけはちゃんとしてね?」
「はーい」
どこか他人事のように、気のない返事をするひより。
その時、一階の玄関のドアが勢いよく開く音がして、バタバタと騒がしい足音が階段を駆け上がってきた。ひよりが退院したと聞いて、会社を大急ぎで切り上げたパパが、異例の早さで帰ってきたのだ。
バンッ、と部屋のドアが開く。
「ひより! 良かった、本当に良かった……っ! 怪我は!? 女の子の体に、跡が残るような傷はないかい!?」
パパは涙目でひよりのベッドに飛び込んでくると、あちこちを痛がらないか確かめるように、ひよりの体をペタペタと触って確認し始めた。
「パパ! あはは、くすぐったいよぅ!」
ひよりが身をよじって笑うと、パパはハッと我に返り、愛おしそうに娘の頭を撫でた。
「ごめんごめん。でも、本当に安心したよ……。無事で、パパのところに帰ってきてくれて良かった……!」
目を真っ赤にしているパパを見て、ひよりは「心配かけてごめんね」とパパの首にぎゅっと抱きついた。
現実世界の温かい家族の絆。そして、左手首のブレスレットから伝わってくるキュアの心地よい温もり。二つの世界に守られながら、ひよりの心は事故の恐怖からすっかり解き放たれ、明日訪れるであろう異世界での新しいお洋服へのワクワクで満たされていくのだった。




