現実世界②謝罪
翌日。ひよりの病室に、少し重苦しい空気を纏った二人の大人が姿を現した。
一人は、あの日真っ青な顔でひよりを抱き起こしてくれたトラックの運転手。そしてもう一人は、彼が勤める運送会社の、いかにも厳格そうな上司だった。二人は揃いの黒いスーツに身を包み、手には立派な菓子折りと、重みのある封筒を携えている。
「この度は、本当に、申し訳ありませんでした……!」
病室に入るなり、二人はひよりのベッドと、その傍らに立つママに向かって深く、深く頭を下げた。上司の手からママへと、菓子折りと示談金――お見舞い金が差し出される。
実際、あの事故の状況を振り返れば、子猫に夢中になって道路へ急に飛び出してしまったひよりの方に非があるのは間違いなかった。
だが、ここは現実世界の日本だ。法律の前では、どうしても「交通弱者」である歩行者、ましてや10歳の子供をはねてしまったトラック側の過失が圧倒的に重くなる。どれだけひより側の不意の飛び出しであったとしても、法律上はトラック側が『100対0』でほぼ全ての責任を負うことになるのが、この世界の冷酷なルールだった。
運転手と上司がこうして迅速に菓子折りと大金を持って頭を下げにきたのも、誠意を示すと同時に、少しでも裁判や警察の処分での情状酌量の余地(処分を軽くしてもらうための実績)を作るための、会社を挙げた必死の防衛策でもあった。
頭を下げ続ける運転手の肩は、罪悪感と今後の不安からか、微かに震えている。
ベッドの上でその様子をじっと見つめていたひよりは、胸の奥がちくちくと痛むのを感じていた。
(わたしが急に走っちゃったからなのに……。運転手さん、あんなに小さくなって謝ってる……)
自分のせいで大人がこんなに怯えて謝っている。異世界では20歳の魔法使いとして堂々と振る舞えるひよりだったが、現実世界ではまだ10歳の子供。大人の社会の複雑な事情と、向けられる過剰なほどの謝罪に、どう言葉を返していいか分からず戸惑うばかりだった。
そんなひよりの不安を察したのか、左手首のブレスレット型魔法デバイス――キュアが、心の中でそっと、優しく語りかけてきた。
(……ひより。大人の世界には、ひよりの知らない難しい決まりごとがたくさんあるんだ。今は無理に何かを言おうとしなくていいからね)
キュアの落ち着いた男の子口調の声に、ひよりは小さく息を吐き、ベッドの中でママの対応をじっと見守ることにした。
ママが複雑そうな表情で菓子折りとお見舞金の封筒を受け取るのを、ひよりはベッドの中からそっと見つめていた。
そんなひよりの視線に気づいたのか、トラックの運転手が、申し訳なさそうに一歩ベッドのそばへと歩み寄ってきた。彼は帽子を胸の前にぎゅっと抱きしめ、ひよりの目線に合わせて身をかがめる。
運転手(小声)「……こんにちは。昨日の事故の……運転していた者です。怖い思いをさせて、本当にごめんね」
その声は震えており、ひよりを傷つけてしまったことへの強い罪悪感に満ちていた。ひよりは、点滴の管に繋がれた小さな手を少しだけ動かし、カサついた声で弱々しく言葉を返した。
子供(弱々しく)「……猫が……道路に……」
自分が急に飛び出した理由を、ひよりは消え入りそうな声で伝える。自分が悪いのだと言いたかったのかもしれない。けれど、運転手は優しく首を横に振った。
運転手「うん、聞いたよ。猫を助けようとしたんだよね。君は悪くないよ。僕も、もっと気をつけるべきだった」
ひよりを責めるつもりなど毛頭ないというように、彼は温かい眼差しでひよりを見つめた。その優しさに触れた瞬間、ひよりの脳裏に、あの冷たくて暗い水底の記憶がよみがえり、目尻から涙がじわりと溢れ出た。
子供「……川……こわかった……」
ぽつりと言葉をこぼしたひよりの小さな肩が、恐怖の余韻でかすかに震える。
その言葉を聞いた瞬間、運転手は溢れそうになる涙を必死にこらえながら、何度も深く深く頷いた。
運転手は涙をこらえながら
「本当に……本当に怖かったよね。助かってくれて……ありがとう」
彼の口から漏れ出た「ありがとう」という言葉には、あの凄惨な現場でこの小さな命が救われたという震えるほどの安堵と、生きて目の前で話してくれていることへの、心の底からの深い感謝のニュアンスが、痛いほどに込められていた。
頭の中で、キュアが
「……本当によかったね、ひより」
と、いつもよりずっと静かで優しいトーンで呟いた。
ひよりは涙を拭いながら、小さく「うん」と頷く。大人の社会の難しい理屈はまだ分からないけれど、自分も、子猫も、そして目の前で泣きそうな顔をしている運転手さんも、みんなが救われたのだということが、10歳のひよりの心にじんわりと伝わってくるのだった。
運転手の涙ながらの言葉と、彼から伝わってくる痛いほどの必死さに、ひよりのママは小さく息を吸い込み、姿勢を正した。
ママは受け取った菓子折りを一度サイドテーブルに置くと、怯えるように頭を下げ続ける運転手と上司の二人に向き直り、毅然とした態度で言葉を返した。
「お見舞いに来てくださったこと、そして、あの日すぐに娘と子猫を引き上げて救護してくださったことには、心から感謝いたします。運転手さんのその時のお姿を見て、娘も救われたのだと思います」
ママの声は静かだが、親としての強い意志がこもっていた。彼女は一度ベッドの上のひよりに優しい視線を送り、それから再び二人の大人の目を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、被害者側としての今後の対応につきましては、これからのひよりの精密検査の次第、ということになります。……申し訳ありませんが、今は娘をそっとしておいていただけますか」
「あ、は、はい……!」
上司と運転手が、ママの放つ静かな迫力に気圧されたように背筋を伸ばす。
「幸い、体の怪我については大きなものがなく、私たちも少し安心しております。ですが……あんな冷たい川の底に落とされたのです。この子のこころがどれほど傷つき、恐怖を抱えているか分かりません。ですから、今後のことはすべての、こころの検査が終わってからにさせてください」
まだ10歳の小さな我が子が、どれほど怖い思いをしたか。今は大人の法律や示談の理屈でこの部屋を汚されたくない――そう告げるママの毅然とした拒絶には、我が子を何があっても守るという強い覚悟が満ちていた。
「も、申し訳ありませんでした! それでは、本日はこれで失礼いたします。また日を改めて、お伺いさせていただきます……!」
上司と運転手は、ママの言葉に何度も深く頭を下げ、逃げるように、けれどどこか救われたような表情のまま病室を後にした。
パタン、と静かにドアが閉まる。
張り詰めていた空気が抜け、ママは小さく肩を落として息を吐いた。そしてすぐにひよりの元へと駆け寄り、その小さな頭を優しく抱きしめる。
「怖かったわよね、ひより。もう大丈夫よ。ママがちゃんと守るからね」
「ママ……」
ママの胸の温もりに包まれながら、ひよりはそっと左手首のブレスレットに触れた。
現実世界の大人の事情はやっぱり難しいけれど、いつでも自分を一番に守ってくれるママの存在が、ひよりの心をじんわりと温めていくのだった。




